機嫌良く杯を傾ける正則の額に、ふと清正は擦り傷を見つけた。窓から差し込むささやかな灯りにも分かるその傷が、何時の間に出来たものだか気になって、清正はそれに手を伸ばす。 「いつのまに作ったんだ、これ」 「!!!!!」 途端大仰な動作で、清正が伸ばした手の分だけ正則が後方へとずざっと下がる。 「なんでもねぇよ!ほら、最初の日にこけた時ンだって」 不自然に上擦った声で正則が告げる。そう言えば確かに初日、正則は清正に会った途端に盛大にコケた。それはまだ記憶に新しい。傷跡を見た感じでもそれはまだ真新しいものなので、理由自体には何の嘘もなさそうだった。ではこの反応は何だと、清正は機嫌を降下させる。良く言えば正直な、悪く言えば単純な正則は、嘘であるとか隠し事であるとかの類がまったく苦手な質だ。それが清正相手ならば尚更に。 面白くない清正は下がられた分だけ、また距離をずいと詰める。するとまたまた正則がその分を後ずさり、勢い妙な緊張感が漂う追いかけっこが部屋の中で繰り広げられる事になる。しかしそう広い訳でもない部屋ではたちまち逃げ場に困って、あっと言う間に部屋の隅へと正則は追いやられてしまう。 「なんで逃げるんだ!」 「逃げてねぇよ!!」 「逃げてるだろ!!!」 「清正が近付いて来るからだろ!!!!」 堂々巡りになって、どうにもお互いが譲らない。業を煮やした清正が、追いつめた正則の腕を掴み押す。するとそれに対抗して正則もぐっと力を込めて、体制はがっぷりよっつの押し合いへと変わる。 「なんなんだよ!!!!!」 「そっちこそなんなんだよ!!!!!!」 ぐぎぎぎ、とお互い譲らない勢いで押し合うと、純粋な力比べでは僅かばかり正則の方に分があるのか、次第に清正が押され気味になる。 しかし清正はぎゅうぎゅうと込めていた力をいきなりふっ、と抜いた。 「うわっっ!!!」 突然の事に力を込めたままだった正則は、ごろりと前方へ体制を崩し転がる。もちろん清正の方へと向かって。すぐに起こそうとした身体は、当然のように清正にがっちりホールドされて、叶わない。 腕の中で往生際悪くじたばたと暴れる身体を押さえながら、清正はふと不安に駆られた。こうして正則が触れることを嫌がるなどと言うことは、今まで一度もなかったのだ。 「本当に嫌なら、もう二度と触らない。どうなんだ」 押さえていた腕を解く。耳元でそう言えば腕の中で暴れていた身体はぴたりと動きを止めた。 「嫌とか、そんなんじゃなくってだな、その、えっと・・・」 ごにょごにょと語尾が小さくなる。歯切れの良い物言いが持ち味の正則にしては珍しいその様相に、清正は眉を上げ、小さくなった語尾に耳を澄ました。 「いやその、なぁ・・・・嫌なんじゃなくって、だな・・・・・・うぅーん・・・・怖ぇって、ゆーか・・・・」 「・・・怖い?」 かろうじて聞き取った語尾を拾ってそう清正が問うと、がばっと正則が身体を起こした。そして清正の襟元を掴み、がくがくと揺さぶる。 「ち、違う!違うって!!!!怖い訳ねーよ!!!」 ぽろりとこぼれたその言葉を必死に否定して、正則が言い募る。なにが怖いのか今一つぴんと来ていない清正には、何に必死になっているのかもさっぱりだ。 「怖いって、だから何が」 がくがくと揺らされる動きにいい加減疲れて、清正が止めさせようと襟を掴んだ正則の手を外させようと己の手を重ねる。するとその動きに大げさな程びくりと驚いて、正則が襟を掴んでいた手をぱっと離した。 清正は思わず正則の顔を見る。あからさまにしまったと言う顔で、しかも赤い。 自分から清正に触れる分には平気で、清正から触れるのが怖いというのも分からない話だった。しかし、ふと清正の頭に思い出されることがある。 この島へ来る直前にも、こうして正則と酒を飲んだのだ。そうしてついそう言う空気になって、しかもこれから暫く会えないと言う事も手伝って、かなり執拗に抱いた。終わってすぐはぐったりして様子にやりすぎたかと焦ったものだったが、次の日には割りにケロッとしていたので、清正はすっかり安心して忘れていたのだ。 「この前の事だったら、悪かった・・・無理させてたんだな」 清正が詫びを口にすると、それに反応して正則の顔がまた赤くなる。どうやら当たりらしかった。 「いや、だからよ・・・・その、嫌とか怖いとかじゃなくて、だな」 「悪かった、もう無茶はしない」 俯いてぼそぼそと喋る正則の顔はやっぱり赤い。今度は驚かせないようにと、清正はゆっくりゆっくり手を伸ばして、昼間から乱れたままの正則の頭にそっと手を置いた。そうして、ぐしゃぐしゃと撫でる。 「・・・・なんか、訳分かんなくなンのが、怖いっつーか・・・だから、清正が嫌なんじゃねぇよ」 それを聞いて、清正の手がぴたりと止まる。言われた言葉が本当ならば、それは俗に言う『良すぎて怖い』ってやつなのではないのだろうか。 脂下がった表情が隠しきれていない清正に気付かず、正則はまだなにやら言い訳めいた事をぼそぼそと呟いている。清正は髪を撫でていた手をゆっくり滑らせながら三秒程考え、そうして自らの衝動に忠実に従うことにした。 |