かくも特別のことであるが、弥九朗は城へ上がるのに確たる許しを必要としない特別な身にあった。きまぐれからか、それとも深慮あってのことか、直家が弥九朗にのみ特別にそれを許したからだ。
であるから、本来ならばこのように弥九朗が大手門より来訪を告げる必要はない。ないのであるが、それでも弥九朗は未だ一度もその特権を使ったことがなかった。許された身であることは身に余る光栄と思っていたが、微妙な立場である弥九朗の事を理解した上で、この特権を与えたその意味が計りかねていたからだ。
弥九朗は大手門よりもう顔なじみとなった番所の門兵へ軽く頭を下げ、本段へと続く坂へと足を運ぶ。門より走った事触が今頃奥へと弥九朗来訪の知らせを運び、本段の入では今頃なじみの侍女が待ちかまえているはずだった。
そもそも今回の来訪はいつもの用向き(本段に使える侍女たち用の反物を見せに上がることであったり、京下がりの珍物を献上することであったり)とは違い、直家から直々に言付かったものだった。
弥九朗は先に城へ上がった時の事を思い出した。馴染みの侍女たちがかしましく反の品定めをしているのを相手していた弥九朗の所へ何を思ったのか直家が遣ってきたのだ。
平素の直家は簡素な衣に身を包み、驚くほど物静かだ。とても一国を預かる武将とは思えぬ風雅な成りで、武人と言うよりは茶人や風流人と言った方が通りの良さそうな外見をしている。
ただ、すらりと通った目元は違った。時に闇夜に真一文字に引かれた弓月のように爛々と光るのだ。
思わぬ直家の来訪に侍女たちは驚き、あわてて室を下がっていく。そのままにかまわぬと言った直家の言葉にも追い立てられるように、女たちの軽い足音はぱたぱたと遠ざかっていった。
かまわぬといったであるに。小さく呟いた直家の言葉が耳をくすぐり、弥九朗は少しおかしい心地になった。驚くほどに人の心の奥底の機微に聡く、人心を手玉に取ることなぞお手のものであるのに、彼の人はこのように時々ごく当たり前の心の動きに不思議を感じ、首を傾げるのだ。
侍女達が去った室に弥九朗と直家は二人、対面した。
「用立てしてもらいたいものがある」
直家はそう弥九朗に切り出した。このように弥九朗に直接直家が依頼をする事はとても珍しい。大概の用立ては主計の任に着く配下のものが義父、九朗右衛門の所へ依頼に来るのだ。
「人を茶に招くことになった。が、このような田舎ゆえ、失礼のない用意とやらもはかどらぬ。弥九朗には茶道具を見繕って貰いたい」
わしは不調法もの故、茶道には疎い、頼んだぞ。
続いた直家の言葉に弥九朗は平服し、頭を下げた。弥九朗とて茶道に明るい訳では無かったが京の父、隆佐に頼めば高名な茶道具の一つや二つは用立てられるだろう。父への連絡や、海上航路の算段を頭の中で立てながら「かならずやご希望に沿うものをご用意いたします」と一層頭を下げた。
これがほんの数週程前の話になる。
それから弥九朗は京の父の元へ連絡を付け、信頼のおけるものに目利きを頼み、めぼしい品の幾つかを京より運ばせた。霰富士釜、芋頭の水指、錦秋の茶杓子等、なかなかに手に入らない品々であると己でも思う。
取り寄せた品の大部分は先に運ばせてあったが、そのうちのこれはと言う幾品かを携えて弥九朗はこうして城へ来訪してきたのだった。
本段の入りで待っていた侍女に連れられ、弥九朗は奥の間で待つ直家の元へと通される。
萌葱の小袖に身を包んだ直家は弥九朗から品を受け取ると、ご苦労とねぎらいの言葉を口にし、口元に笑みを浮かべた。
「明後に開く茶会にてこちらの品々、披露するとしよう。弥九朗も参れ。茶会の後、招客に紹介しよう」
ゆっくりと直家の口元がいつもの皮肉めいた笑みの形に歪む。直家の言葉とあっては弥九朗に拒否の意はなかったが、それに慌てたのは同席していた家臣連中であった。
弥九朗を見、口々に非難めいた言を口にする。しかしそれも「かまわぬ」との直家の一言にしぶしぶといった体で口を閉じた。
弥九朗からしてみればどのような人物が招かれる茶会かも分からず、そもそも己のような立場の人間が引き合わされると言うその意味が掴めない。しかし、直家が来いというならゆかねばならぬ。疑問は残りながらも承諾の意を伝え、弥九朗はその場を下がった。
そうして場を辞した弥九朗はもと来た道を戻り、不明門よりの帰途につこうとしていた。
しかし、その背に声が掛けられる。
振り向くとそこには先ほど同席していた家臣団の一人、花房越後守正幸の姿があった。弥九朗は慌てて、これは、と頭を下げる。
頭を上げた弥九朗は越後守の言葉を待ったが不思議なことに何も言ってはこない。見ればその表情は苦虫を噛みつぶしたようになっている。
平素何かと弥九朗を気にかけてくれていた彼は、何事か口の中でもごもごといい淀んだあと、ぽつりと「茶会にはこぬがよい」と一言だけ口にした。
「何故にございますか」
「殿がどのような考えで貴殿を同席させようと言うのか、其れがしには分からぬ、ただ、来ぬがよい、としかいえぬ」
「それでは命に背くこととなります」
「それでも、そうとしかいえぬ」
弥九朗の問いにはもう其れ以上答えず、彼は背を向け去った。その背中を見つめながら何故そのような事を急に言われたのかと弥九朗は考える。茶会の招人はよほど重要な人物で、己ごとき人物が目通りしてよいような相手ではないのか。しかしそれでも直家からの命であり、それに応と答えてしまった以上弥九朗にはそれに背くなどと言うことは到底できそうもない。己を思っての忠告であったろうが、それに背いてしまうのに心苦しさを感じ、去っていく越後守の背に弥九朗は黙礼を向けた。
茶会の日、弥九朗は登城していた。あの日花房越後守に言われた言葉が胸の内に引っかかってはいたが、しかしそれでも直家の言葉を辞退しようとは考えられなかった。
南座敷に設けられた茶室側には茶会の準備に追われる茶坊主やらが忙しげに行き来しており、邪魔にならぬようにと、弥九朗は数奇屋の裏方へと周り、そこで茶会の終わるのを待つことにした。直家からは未だなんの下知もないが、その時がくれば声も掛かるだろう。そう思いその場に佇む。
ふと気がつくと、茶室の周りには幾人かの侍の姿が見える。腰に大小を指したその姿はどうにも風雅な茶室にはそぐわない姿で、弥九朗は内心首を傾げた。警護と言う意味であるなら、この郭自体にすでに大層な数の人間が配置されていたのを見ていたからだ。
そうこうしている間に、南座敷からからの濡れ縁を通り、直家とその客人が茶室に入って行くのが弥九朗の目に入る。客人を先に室内へと勧める直家の目がその背中越しに偶然弥九朗と合う。細く引かれた刀傷のような目をして直家が笑い、弥九朗を見た。一瞬だったそれはしかし弥九朗の身を竦ませ、言いようのない不安を沸き上がらせる。
そうしている間に直家は客人と二人きりで茶室に入っていった。城主自ら振る舞う茶は何よりの接待だろう。この茶の席がうまく行けば、茶道具をそろえるのに奔走した弥九朗の苦労も報われると言うものだった。このまま何もなく、この席が終わるのならば。
異変は暫く後に起こった。
まず気付いたのは不振な物音だった。
茶室の裏手に有る弥九朗の耳にすら聞こえる大きな音が耳朶を揺らした。しかし、辺りに配された侍達は緊張した面持ちで刀に手を掛けはするが一向に茶室内に入ろうとはしない。内より聞こえる異音は一層大きくなり、不安に駆られた弥九朗は焦れて入り口へと駆け寄る。
どん。
近づいたところで今度は大音響が室より響いた。明らかに今までとは違う、何かが弾けたような音だった。弥九朗はその音を知っている。
堺で何度か耳にした、鉄砲の音だ。
呆然と動きを止めて、弥九朗は室へと続く入り口を見つめた。一体、この中では何が起こっているのか。
暫し固まったままの弥九朗は、室の入り口がかたりと動いた音で我に返った。気づけばあの大音響の後から室内は静まり返り、物音一つしなくなっている。
かたかたといびつな音を立て小さな戸が動き、そこから直家が身を滑らせ出てくる。無事な姿に弥九朗は安堵したが、次の瞬間凍りついた。
彼の人は全身くまなく、血に濡れていた。
髪の先、肩に掛かった羽織から、指先、足先に至るまでくまなく、赤いのだ。
動けぬ弥九朗に気付いた直家は、平素と変わらぬ笑みを口元に浮かべ、弥九朗、と呼んだ。
「おぬしを招客に紹介できぬようになってしまったな」
いつもと変わらぬ声色で、いつもと変わらぬ表情で直家はそう告げた。
直家の姿は血塗れであったが、本人に傷はないらしく、戸をくぐり、控える配下もものになにやら指示を出している。弥九朗は言葉ひとつ発することが出来ず、ただそれを見ていた。血濡れた直家の姿を見ていた。
呆然と佇む弥九朗の側を気の毒そうな表情で花房越後守が通りすぎる。そしてそのまま直家に近づき、何事かを耳打ちした。
思えば彼は最初からこの茶会が何を目的で設けられたのか知っていたのだろう。であるから、そのような場に弥九朗を呼びつける意味を疑い、弥九朗には来るなと釘を指したのだ。
弥九朗の耳に直家の声が聞こえた。
「九朗右衛門に用立てさせたが、使い勝手が悪い」
言葉と共に弥九朗の足下になにやらごろりと投げ出され転がるものがあった。みやるとそれは奇妙な形をした脇差しだ。大きさはやや小振りの短刀と言ったものであったが、その刀身には沿うように短筒が備えられている。奇妙といっていいそれは、未だ弥九朗が目にしたこともない暗器であろうと思われた。
「腹へ突き立て引き金を引けば、肉がはぜた。おかげでこの有様だ」
直家がそう言い、己の肩に粘りついた血色の肉片を摘み、地面へ捨てる。見れば血濡れた直家の全身にそのような肉片がへばりついていた。悪夢の中で見る地獄とはこのようなものであるかと、血の臭いに吐き気を催しながら弥九朗は震える足に力を入れる。そうしなければ、今すぐにも地面へ膝をついてしまいそうだったのだ。
であるのに、まさに渦中の直家は奪った命への咎も、己の姿も、意に介さぬふうにただ弥九朗を見て笑う。
「苦労であった」
直家の口元が残酷に歪み、目が爛々と瞬く。
脇差しを突き立てもみ合った際にできたのか、直家の襟元や胸元には真っ赤な手形が幾つも残されていた。肌蹴た胸元の白さと相まってそれは酷く不吉な光景で、弥九朗を落ち着かなくさせる。
「下がってよい」
腹の底が冷える心地で弥九朗は目を伏せ、直家に頭を下げた。
恐ろしい。
何が恐ろしいのかもよく分からず、ただ弥九朗は歯の根が合わぬその思いに恐怖した。
目を瞑ってみても瞼の裏には血濡れた直家の姿や、べったりと首筋についた血手形が浮かび、少しも恐怖は紛れなかった。
直家が弥九朗の側を離れ、上段に戻り辺りに配されていた侍連中が去っても、弥九朗は動くことが出来ず、ただうなだれ立ち尽くした。
瞼の裏の直家の姿はいつまでも消えることはなく、心の臓の軋みが収まることは無かった。