庭の梢がさわと鳴って、珍しく私は早くに目を覚ました。
障子戸の隙間から漏れる光はまだ儚く青白い朝方の色を滲ませている。
私は夜具から身を起こして「そのひと」を見た。
隣で寝入っているそのひとの寝顔を見れる事は大層珍しい。目が覚め気が付くとその姿は隣にないことが多く、それが習い性のようになっていたからだ。
薄明るい光の中、隣に眠るその顔は酷く白い。白いと言うよりもそれを通り越して青白い。整った面立ちがそれに相俟ってまるで腕の良い人形匠によるそれのようで、酷く造り物めいて見えた。
生きているのだろうか。

ふと、そんな詮無い思いに囚われる。
それは生きているに違いない。生きて人のぬくもりをもって脈打つ生き物である筈である。
しかし。


これは人形ではないのだろうか。

ふと浮かんだその思いが拭えない。馬鹿らしい。自嘲してみてもその生気の感じられない白面を覗いているとどうしても恐ろしくなる。
睫がぴくりとも動かなくはないか。白いその面は生者のものではないのではないか。透き通るような白い肌の下に人の血潮は流れていないのではあるまいか。脈打つ心の臓はその肉の中に本当にあるのだろうか。



恐ろしくなってそっと掌をそのひとの口元に翳した。すると湿った薄温い息がしっとりと掌を濡らす。私はそのことにほんの少しだけ安堵した。そうしてそろそろ起きるであろうかと改めてそのひとを伺った。いつもならば敏感に人の気を感じ身を起こす処であるのに今日と言う日に限ってその気配がようとも見られない。
暫し待つ。
身じろぎひとつしない。
暫し待つ。
瞼一つ動かない。
やはり私の胸のうちに言い知れぬ不安が首を擡げた。
これは人形なのではあるまいか。生人形が人を模してその真似事をしているのだ。そうと思えばその細い寝息も小さく上下する胸の動きもすべてが贋者のように思えた。



嗚呼。人形だ。



だから彼の人は私と交わらぬ世界の住人なのだ。
だから二人の間には越えられない境界があるのだ。
だからどれだけ近く肌を合わせても白々しい程にその距離は縮まらないのだ。




だから。




ふと私の目はその白い首に吸い寄せられた。薄い肩へと続く細いそれはその面と同じくただ白い。陶器を思わせる白さだ。
つい、と手を伸ばす。そのひやりと白い蛇を思わせる喉元に僅かばかりでも温もりが感じられれば安堵できるのではないかと思ったからだ。
しかし伸ばし掛けた私の手はその途中でぴたりと止まった。
蛇だ。
何処から入り込んだのか、眠るそれの横に一匹の蛇が鎌首を擡げている。
蛇はちろちろと紅い舌を伸ばしながら滑るようにゆっくりと進む。
ぬらりとその鱗が光りをはじく。
私は何か悪い呪いに懸ったかのように動けなかった。ひりついた喉が空気を求めて喘ぐ。声すらも出ない。
ぬらり。
蛇の身体は滑らかな動きでその傍ら辿り着き、白い首にするりと巻き付いた。そうしてゆっくりとその身体を巻き付ける。
ぬらりぬらり。ぎちぎち。
白い喉にまるで荒縄ような身体が巻き付いてゆくのを私はただ眺める事しか出来なかった。身体はやはり動かない。
白い人形の首をゆるゆると少しずつ蛇は締め上げる。喉に掛かる圧迫感からか、人形の白い指先がひくりと一度痙攣した。
ぎちぎち。
蛇が更に締め上げると人形の身体はびくりと跳ねた。




ぱち。




音がしそうな勢いで、人形の眼は開かれた。そこにあったのは意志ある人の瞳だった。魂のない硝子玉の瞳ではなかった。
私の身体に急に現実が戻ってきた。あれほど動かなかった身体はその呪縛を解かれた。指先に力が戻り、喉からは声が出た。


床の上からあのひとが、静かな瞳で私を見上げている。
瞬きを繰り返し、そっとその白い指先を蛇が絡まる首に伸ばした。


そうして私は気が付いた。



蛇は、私の掌、だったのだ。





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