妙な喧騒が耳につき、陣内を歩いていた行長は顔を上げた。
敵地中の仮陣は血と汗の匂い、そして汚泥、腐臭に満ちている。今回の戦に伝令役として随行していた行長は、厄介ごとに巻き込まれるのも馬鹿らしいと、そちらを見ずに足を進めようとする。しかしその行長の意識に、するりと無視出来ない声が響いた。
「何か申し開きがあるならば、聞いてやろう」
 聞き覚えのある声色。喧騒の中心、人々が遠巻きに見守る視線のその先に居たのは清正だ。彼はなにやら三人の兵を前にして、相手を威圧する声を出している。
「ひいぃ、そんな、何で俺らだけ罰せられなきゃなんねぇんだよう」
「そうだそうだ」
「お前達は秀吉様から下された軍規を破った、従わぬものには罰がある、それだけだ」
 清正の口調は激しい。それだけ怒っていると言うことなのだろう。行長が遠巻きに見た所、男達は薄汚い身なりの下級兵で、その手には酒瓶と彼らには不釣合いな鮮やかな色の女物の小袖があった。
 それは多分、男達がいくさ場近くの家々で略奪してきたものなのだろう。美しい小袖の裾にべったりと付いた血染みは、もしかすれば犯し殺した女から剥いできたからからもしれなかった。
 酷い話ではあろうが、それは珍しいことでもない。行長はそれを知っている。知っているからこそ、そんなことにいちいち目くじらを立てる清正が信じられない。彼こそ、自分などよりずっと早くからいくさ場に立っていたのだから、その強者の原理を知っている筈なのだ。
 上から出される略奪禁止令は、一応軍としての体裁を保つ為に出されているものに過ぎない。多くの侍大将達はそれを知っているし、兵卒たちもそれを分かった上で、略奪行為を行う。戦勝後のそれは、言うなれば一種の褒美でもあるのだ。
 まったく阿呆ぅらし。何やってるんや。
 心の中でそう呟き、行長は辺りを見回した。清正と同輩、若しくは彼よりも年嵩で立場も上のもの。激昂する清正を宥めることが出来そうな、代わりの誰か。しかし近くにそんな人物は見当たらない。ほうっておいたらあかんやろか。面倒くさいわぁ。ちらりとそんな考えが頭を過ぎる。しかし清正は行長にとって何故か看過し難い相手であったし、事の顛末が後から気になってしまうのは収まりが悪い。
 仕方がないと、行長はその喧騒の中心に踏み込み、声を上げた。
「何を騒いでおられます、休停時とは言え、戦中ですぞ」
割って入った行長の声に、全員の視線がこちらに向く。ことさら強い清正の視線を感じながら、行長は何時もの調子を崩さぬ口調で言葉を紡いだ。
「聞けば先ほどから罰するの罰さないのと、そのような事ばかり。今は一兵でも惜しい時でありましょう。この場は私が預かり、いくさの終わり次第、改めて詮議すると言うのは」
 行長が口にしたのは、三人の処罰はいくさが終わるまで自分が預かるという救済策だ。勝者の権利である略奪を行って罰せられる、などと言う馬鹿げた事が兵達の間に知れ渡っては、士気にも影響がないとは限らない。行長が提案したそれは、一時預かりと言う名の元の無罪放免でもあった。三人の男達にもそれが分かったのか、安堵の表情を浮かべ、次にはニヤニヤとお互いに笑い合う。行長と言う味方を手に入れ気が大きくなっていたのだろう。
 そうして、彼らは取り返しの付かない、大きな間違いを犯した。
「こんなの誰だってやってらぁ」
「あの女は運が悪かったんだ」
「それに、死ぬ前には極楽が見れただろうさぁ」
 そうお互いに言い、下品に笑い合う。
 変化に真っ先に気付いたのは行長であった。空気が急に冷えた。肌を何かがちりちり刺激し、ふと目を上げると、清正が腰の刀を抜いている。ああ、肌を刺すこれは殺気であったのか。
 ぽとり。
 音もなく清正は抜いた刀を振るった。まるで人形の首が取れるように、一人目の男の首が地面へと落ちる。そうして返す刀で二人目の首。
 流石に気付いた三人目の男は、恐怖に引き攣った声を上げ、逃げ出そうと腰を浮かす。しかし走りだすよりも早く、寸分の狂いもなく胴当ての繋ぎ目に刃先がねじ込まれ、急所を抉り貫かれる。
 どさりと力を失った身体が地面へと倒れ伏すまで、ほんの瞬きを数回する間。表情ひとつ変えず味方を手に掛けた清正は、まだ刀を手にしたまま辺り一帯に向かって声を張り上げる。
「例外はない。軍規は絶対であるし、無抵抗なもの達への略奪を俺は絶対に許さない」
 張り上げた清正の声は、凛とした響きで空気を振るわせた。この清正の宣言は、彼の配下の兵達を恐れさせ、そうして其の内の何人かは軍を抜けるだろう。しかしそれでも残ったもの達は、清正の訴えに、志に、心酔し熱狂することになるだろう。
 なるほどこれがお前のやり方か。
 行長は清正を見た。剥き身の血に濡れた刀をまだ持ったまま、その表情は固い。しかしそこには強い意志が見える。嗚呼そうか、それがお前の生き方であると、そういうのか。まったくもって反吐が出る。
「お前の手を煩わせるまでもない、もう終わった」
 傍に立つ行長に漸く視線を合わせ、清正は素っ気なくそう言う。しかし行長はそれに返事を返さなかった。じぃと、ただその一点を眺めている。
「加藤殿、髪に血が」
 三人斬った清正の身体のあちこちには、血飛沫が幾つか飛んでいる。ざんばら髪を適当に縛っていたその毛先に、べったり飛んだ血がこびり付いていた。漆黒の色にべたりとへばりついた朱は、時間が経つにつれて髪色と同化していくだろう。
「ああ、なんだそんなことか」
 ぽつりと行長が漏らしたその一言を聞くと、清正は事も無げにその縛ったままの後ろ髪に懐から出した短刀を入れた。さして身だしなみに興味も拘りもある方ではない清正は面倒臭がって髪をあまり整えない。短髪からそのままだらだらと伸ばし、縛れる程になれば縛り、邪魔に思える長さまで伸びればまた短髪にまで切る、その繰り返しだった。
惜しみもなくざくりと断たれた黒髪は、清正が手を離すと風に巻かれ、泥の溜まる地面へと落ちた。その軌跡を目に入れることもなく、清正は足早に行長の前から去ってゆく。その行く先の予想は付く。秀吉の元だろう。
先の一件を報告し処遇を請うのだ。そうして行長には秀吉が下す決も、もう分かりきっている。忠義者よの、あっぱれと、きっとあの猿はそう言って終わらせるのだ。
残された行長は、汚泥に落ちた清正の髪を見た。そうして泥に塗れ、沈み込んでゆくそれを躙る。少しも胸の内のつかえは取れない。吐き気がすると、そう行長は独りごちた。



このページのトップへ ▲

▼ 前のページへ