名も決まらじて候
「倒れた?」
取り次ぎ役の小姓からそれを聞いた時、清正は思わず聞き返した。俄かには信じがたかったからだ。
「で、誰が」
「福島殿です。おねね様からお伝えするように申しつかりまして」
「・・・で、誰が倒れたって?」
いや、ですからと、再三の問いかけに眉を顰めながら小姓が言葉を続ける。三度目にしてようやく清正はその意味を理解した。
小姓が説明した所によると、支城での小競り合いに出かけた正則が火縄による手傷を負い帰城後倒れた、そういう事らしい。
「容体は?」
思わず険しくなった声に小姓がびくりと身体を揺らす。
「熱が続いていると聞いております。詳しくはおねね様からの文にあるとのことですので」
清正に文を渡すと剣呑な空気を感じ取ったのか、そそくさと小姓がその場を辞する。ふうと息を一つ吐き、そうして清正はその文を開いた。ぱらりと開いた彼女らしい屈託のない文字で綴られたそれは要約するとこういう事だ。
火縄で撃たれた正則は大したことはないと、ろくな手当もしないでそのまま戦勝の酒盛りをしていたらしい。するとその鉄砲傷から熱が出て酒盛りの途中に倒れ込み急遽運び込まれた、そう言うことらしかった。
お医者様は大したことないって言ってたけど、心配だから清正、見に行ってあげておくれよ。彼女らしい細やかさでしたためられた文を見て、清正は安堵の息を吐いた。
本当ならば彼女自身が飛んでいって看病やら小言やらを言いたい処なのだろう。しかしながら秀吉を支える身である彼女も滅法忙しい身だ。ままならない身を抱え、仕方なく自分にこの文を託したのだろうと考えると昔となんら変わらない彼女から自分達への愛情を感じ、くすぐったい気持ちになる。
文を畳んで文箱に丁寧に仕舞う。清正は教えられた正則が運び込まれた離れへと向かう事にした。おねね様からの頼みとあっては断る理由もない。ついでにまがりなりにも人を束ねる立場にあると言うことを、とくと説いてやらなければならないだろう。
憮然とした表情を作ろうとしてもどうにも安堵の笑みが漏れてしまうのが照れくさく、清正は苦笑いを浮かべて場を立った。
廊下でかち合ったのは偶然と言うより他無いのだろう。勿論清正も驚いたが、それ以上に驚いていたのは相手の方だった。
「三成?」
「!!!!」
少し先には正則の運び込まれた部屋がある。そんな所でどうしたことか、三成はうろうろと行ったり来たりを繰り返していた。手にはなにやら盆のようなものを持っている。
「こんなことろで何をしてるんだ、お前?」
「俺はおねね様に言われて、仕方なくあの馬鹿の見舞いに来ただけだ」
どうやら彼女は清正だけでなく三成にも同様の文を出していたらしい。彼女らしい手筈と言える。
ふと清正が三成が手にした盆を見ると、そこには南蛮ガラスの水差しが乗っていた。普段は正則と憎まれ口を叩き合う仲であるのに、おやと清正は思う。
「勘違いするな。これはおねね様に言われたからであって、あの馬鹿の為にしたことではない」
清正の視線を水差しに感じたのか、三成は冷めた口調で言い放つ。三成の実際の心境が照れ隠しの為のものであったとしても、表情一つ変えることなく、例の鉄面皮で言われると周りにはなんとも分かりにくい。清正には何となく分かる三成なりの照れ隠しは、実際に正則の前で発揮されればまず理解されることもなく終わるだろう。
「分かった、そう言うことにしておこう」
清正の言葉に三成の眉が寄る。次の瞬間清正の目の前にはずいと突き出された盆があった。
「丁度良い、これはお前が持ってゆけばいい。俺は忙しいのだ、お前が行くのならそれでおねね様の用は足るだろう」
目の前に突き出された盆を反射的に手にとってしまった清正に強引にそれを押しつけると、三成はくるりと身を翻し廊下を去ってゆく。どうにも先ほどの清正のものいいが気に喰わなかったらしい。
去ってゆく三成の背中が小さくなってゆくのを眺め、そうして清正は手元の盆に乗った水差しに視線を移した。先程盆を押しつけた時に触れた三成の指先は冷たく冷えていた。多分彼は手ずから井戸水を汲み、この水差しを用意したのだろう。
清正は視線を上げ、三成の去った方角をみた。勿論もうそこに三成の背中は見えない。難儀な性の幼馴染を思い、清正は複雑な想いの混じった溜息を吐いた。
「入るぞ」
三成から押しつけられた盆を片手に持ったまま、清正は短くそう告げ、正則が押し込められている部屋の戸を引いた。
「きよまさぁ〜!!!」
途端、強い衝撃とともに体当たりするように正則がしがみついてくる。思わず片手に持った盆を取り落としそうになって、清正は慌ててそれを両手で抱え直した。
「何なんだ一体」
「お、俺、死ぬかもしんねー・・・」
抱え直した盆の上で水差しが転がっていないのを確認し、そうして清正はべりっと無情に正則を引き剥がした。そもそもそんな重体とも聞いていないし、死にそうな病人がこんなに元気な筈もない。清正は後ろ手に引き戸を締め盆を床に置くと、涙目で立ち尽くす正則に部屋の中央に設えられた夜具を指さし、戻れと示した。
「そんな簡単に死ぬか、ちゃんと寝てろこの馬鹿」
「・・・・だってよう・・・メシも欲しくねぇし、なんかだるいし、もう俺きっと死ぬんじゃねぇかってよう・・・・」
ぶっ倒れた後無理矢理着替えさせられたのか、白の夜着にざんばら髪姿の正則はいっそうしょげ返って、夜具の上で小さく肩を丸めた。普段が元気一杯な分だけ己の体調不良に慣れていないらしい。思えば昔から三成、清正、正則、三人揃って風邪をひいても正則だけは食欲も衰えず、いち早く完治していたように思う。対して食が細く、何かあるとすぐに食欲を無くす三成は三人のうちでは一番治りが遅く、いつまでも床を上げることが出来なかった。
「ちょっと食欲が無くなったぐらいで死ぬか、この馬鹿」
清正の言葉に黙り込んで正則はうぅ、と小さく呻く。そんな正則の前に先程から苦労して運んできた盆を清正は置いた。
「・・・何だぁ?」
「差し入れだ、三成からの」
へ?と言う顔の正則の前に盆の上の水差しを渡す。よく見れば南蛮ガラスの底にはコロコロと転がる小さな菓子の姿があった。こんぺいとう、とか言う南蛮の砂糖菓子だ。冷えた水の底でそれはきらきらと光りを弾いて随分美しい。
珍しいこの菓子は、以前三人に秀吉様より下賜されたもので、それを三成が残していたのだろう。この場に居ない三成の心遣いがそこにはあって、それが分かったのか正則も水差しを見たまま、黙り込んだ。そしてしばらくそれを見詰めた後、口に運ぶ。冷えた水は熱で乾いた喉には甘い。最後の一口で水と一緒に金平糖を口に含むと、水底で揺らめいていたそれはほろりと舌上で溶け、身体に染み渡った。
「・・・うめぇ」
「後で三成に、礼、言っとけ」
「あぁ・・・だよなぁ」
一息で飲み干したそれを盆に戻すと、はぁと息を吐いて珍しくしおらしい態度で正則が返事を返した。
「馬鹿やってぶっ倒れたっておねね様から聞いたぞ、何やってんだまったく」
心配かけんじゃねぇよと清正が正則の後頭部を小突いた。ぐ、と正則はその拍子に俯いてしまい、そのまま固まってぼそぼそ何かを呟く。表情は俯き落ちてきた髪に隠れて見えない。見えない、だが、まぁ予想は付いた。激しくへこんでいるのだ。
「自分でも馬鹿やったって分かってんなら以後気をつけろ、それが出来なきゃ本物の馬鹿だ」
「分かってらぁ・・・俺だってよぅ・・・」
珍しく下降気味な声で呟く正則の後頭部を清正はもう一度小突いた。そしてそのままぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
「撃たれたんだろ、晒し布代えてやるから見せてみろ」
清正の言葉に正則が俯いたまま夜着の肩を落とす。撃たれたのは左肩付近らしく、そこに巻かれた晒しを解くと、どうやらもう血は止まっているようだった。傷は左肩を大きく抉っているが、火縄の鉛は残っていないらしく傷自体は大したものではない。しかし火縄の傷はたとえ軽傷であっても、鉛の毒に慣れないものは高熱を発することがある。今回の正則の症状もどうやらそれらしかった。
清正は部屋に用意されていた手当用の手桶で手拭を絞り、肩口付近の血汚れを丁寧に拭き取っていく。熱を持ったそこは触ると痛むのか小さく痛って、と呟く正則の声が部屋に響いた。傷はきっとすぐに直る類のものだ。だが痕は残るだろう。残った痕はきっと馬鹿をやった後悔とか悔しさとか、そういうものとして思い出されるのだ。見れば正則の身体には他にも幾つかの刀傷やら矢傷やらが見えて、その幾つかを清正は知らない。いつどこの戦場で、どのような状態で、どんな気持ちで、その傷が出来たものなのか、清正は知らないのだ。
ふいにそう思い当たって、それが妙に己を寂しくさせる事実だと言うことに清正は気がついた。
馬鹿らしい。
ふとよぎった己の考えを清正は打ち消す。勝手な考えだ。正則だけではなく自分自身にだって傷はある。それは後悔の傷であったり、誇りとなる傷であったり色々だがそのどれもが大切なものだ。自分だけのものだ。だから正則のそれを知らないからといってそれ寂しいなどと思うのは随分勝手な話だ。
手拭で傷を清め終わると、清正は蛤の貝殻に入った軟膏を懐から出す。これは行きがけに正則配下の小者から言付かったものだ。実は他にも食べ物やら酒やら色々渡されそうになったのだが、さすがにそれらは断りこの傷薬だけを預かることにした。ノリが正則に酷似している配下の小者らは(後から似てきたのかもしれないが)一様に彼らの大将を気遣い、心配して自分にそれを託してきた。その傷の答えはきっとそれなのだろう。正則が気付いているかは分からないが、きっと無意識には分かっている筈なのだ。でなければ人は人に付いてはゆかないし、集団を纏めることなど出来はしない。
薬を塗り、布を当てると元通りに晒しをきつめに巻く。終わったことを知らせるように、もう一度ぽんと、頭に手を乗せた。
「お前は、良くやってるよ」
清正の言葉に、ばっと、正則が顔を上げた。
何も言わなかったが、その表情は本当にそうなのか、と清正に問うていた。口はぎゅうと結ばれてなにやら必死の形相で、でも目は泣きそうな、そんな表情だった。ぐらりと、頭の芯が揺らぐ。清正はこんな正則の表情にとても弱い。こればっかりは昔からだからもう仕方がない。条件反射のようなものなのだ。だから清正は、この表情にとても、弱い。色んな意味で。
清正は傷のある左とは逆の右肩に手を伸ばす。逃がさないように、後頭部にも手を置いてがっちりホールドする。そして、何だぁ?と言葉を発そうとした、正則の口を吸った。
ええぇぇ、と言う驚きの言葉が清正の口の中で消える。熱の為か咥内や吐息がやたらと熱い。大人しく差し出された舌を吸い、噛む。一通り満足して口を離すと、ぷぁ、と声を上げて、正則が足りなくなっていた息を吸い込んだ。熱の所為だけではなく、目元が赤い。
「い、いきなり何なんだよぉ!」
清正的にはいきなりでも何でもないのだが、なんせお互いの事に対するタイミングが違うので、向こうからすれば十分に不意打ちだ。
「いや・・・、まぁいい黙ってろ」
赤くなった目元に親指の腹で触ると、くすぐったそうに目を細める。もう一度と、顔を寄せようとした時に、それは起こった。
「正則〜時間出来たから、お見舞いにきたよ〜!!」
前振りもなく戸が引かれ、それと同時に聞き慣れた声が響く。思わず力が入った清正は力一杯正則を突き飛ばし、どたーん、と大仰な音を立てて正則は床に倒れ込んだ。(幸いにも背後は布団だった)
もちろんと言うか、戸口にはねねの姿がある。
「あれ、正則大人しく寝てるねぇ、感心感心、いい子だね」
ねねの手には特製のお粥が入った鍋と、怪しげな色をした薬が入った湯呑みがあった。床に転がったままの状態からねねの手にあるそれを見て正則は露骨にうわぁと言う表情をする。
おねね様特製薬を飲みたがらない正則に、どうやってそれを飲ましたか、それはまた別のお話だ。