「うなななっ!!」
「いでっ!!」
 不機嫌を露わにした短い鳴き声と小さくない音量で上げられた悲鳴を聞いて、清正は目を通していた書状から顔を上げた。
 そこにはここ大阪加藤屋敷ではもうすっかり馴染みになった彼、福島正則の姿と最近屋敷に居着いた虎猫の姿がある。どうやら食べ終わった団子の串で猫を構っていた正則が、しつこ過ぎて反撃を食らったようだった。見れば正則の串を摘んでいた右手の甲には、くっきり無体への返礼が紅くミミズ腫れとして残っている。
 痛ってぇ、と手の甲に息を吹きかけながら涙目の正則を尻目に虎猫はにゃ、と短く鳴くと縁側から中庭に飛び降り、枝振りのいい松の上へ待避していた。
 一撃離脱。用兵としてはなかなかのものだ。

 例の一件より少しばかり公務を控えめにこなすようになった清正の元に、正則は益々よく通ってくるようになった。もちろん家人ともすっかり顔見知りで、気さくに挨拶を交わし、主不在の時でもちゃっかりと上がり込んでいたりする。そして飯を喰ってはごろ寝をし、酒を呑んで酔っぱらっては遅くなったと泊まってゆく。お前、うちの食客なのかと清正からしたら突っ込みたい気持ちでいっぱいではあるが、まぁそれが全く迷惑かと言うとそうでもなかったりするので、とりあえずは黙認しているのが現状だ。
 こんなに入り浸りで福島の家中は大丈夫なのかと、清正からすれば心配になったりもするのだが、滞在日数が三日を越えると決まって眦をつり上げた家老衆の一人が訪ねて来、逃げ回る正則をひっ捕まえて強制送還と相成るので、それはそれで福島家家中も上手く回っているのかもしれない。
 そういえばそろそろ福島の家中からの迎えが来る頃なんじゃないかと、そんなことを考えながら清正が視線を内庭に移すと、松の木の下で猫に一通り悪態をつき終わった正則が、どたどたと戻って来るのが目に入る。
 頃合い良く背後からは角兵衛の足音が聞こえ、茶を運んで来たのが分かった。一息いれるかとまだ手に持ったままだった書状を文箱に仕舞い、清正は小さく伸びをする。
「うーす、茶だぞ」
 ぞんざいな物言いで声を上げ、角兵衛がどっかりと清正の隣に座り込んだ。茶盆の上の茶器は三つ。どうも角兵衛の分も入っているようだ。
「おっ、饅頭、あんのかよ!」
「とうきび餡の饅頭だぞ、珍しいんだから味わって喰えよな。お前はなんでもぱくぱくいくからなぁ」
 さっそく手を伸ばす正則に角兵衛がブツブツと文句を口にする。
 清正も続いて手を伸ばし、一口齧る。舌の上には上品でしっかりした餡の甘みが広がる。勿論のこと旨い。確かにこれは上物の饅頭だろう。正則なぞは早くも二つ目に手を伸ばしている。
 気付けば松の上だった虎猫もこちらが何かを食しているのに気づいたのか、何時の間にやら縁側に上がって来ている。そしてすぐ隣から甘えた声を上げて饅頭を強請るように清正の膝頭に頭を擦り付けた。
なーーーぁーーーん。
 何故だか分からないが、この虎猫は酷く清正に懐いている。勿論、猫が嫌いな訳でもない清正も好かれて悪い気はしない。請われるままに饅頭を一欠片、差し出してやる。
 満足そうに目を細め、ざらりとした舌で虎猫は清正の手からそれを食べた。
「そういえばよう、コイツ、名前あんのかぁ?」
 早くも三つ目に取りかかる正則が不意にそんなことを口にした。正則とこの虎猫も普段は別段不仲な訳ではない。むしろ猫には同輩と思われている節もあるぐらいだ。
「知らんな」
「あるぜ」
 正則の言葉に清正、角兵衛の返事がハモる。
 角兵衛の言葉に清正は思わず、その顔をじっと見た。
「家のもんは『まつ』って呼んでる」
 吹き出しそうになった茶を無理矢理飲み込んで、清正は盛大に噎せた。ごほごほと咳を繰り返す。
「な、んで、そん、な・・・ゲホ」
「いや、あの松の木がお気に入りみたいで、よくあの上で居っからさ、あともう一つ訳はあって」
「・・・も、う、いい・・」
 そうか?と人の悪い笑顔で角兵衛が笑う。
「いい名前だろ、まつ」
「猫につける名前じゃ、ねぇな」
 ようやく、整った息で清正が感想を述べると、にぃっと角兵衛の笑みが深くなる。
「前田殿の奥方様の名前も『まつ殿』だ。良い女には良い名前じゃなきゃなぁ、なあ、まつ」
「お!こいつ、雌なのかよ。おい、まーつー」
 知らぬは本人ばかり、と正則が猫の名を呼ぶ。虎猫も分かっているのか呼ばれた名になーん、と返事を返すと饅頭の欠片を食べ終え、今度は清正の膝の上に乗り上げてそこに身体を落ち着けた。
「雌なのは間違いねぇよ、ほら、乳が張ってるだろ。こいつもうすぐ仔を産むぞ」
「へぇ、お前、かーちゃんになんのか」
 清正の膝の上のまつをそう言いながら正則がツツく。しゃーと威嚇の声を上げられてひっと、正則がその手を引いた。どうやら先ほどの一撃がまだきいているらしい。
「産まれたら俺ンとこで、一匹貰うぜぇ。なんか鼠がでるっつてたからよ、丁度探してたんだよなぁ」
 正則の言葉にも上の空で、清正はどのようにすればこの猫の名を伏せたまま子猫の貰い手が探せるかと、その思案に明け暮れていた。もちろんその思惑は、隣の角兵衛がぶち壊しにすることは言うまでもない事だ。


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