※清正演舞、関ヶ原後。三成死亡してます。
死にネタ苦手な方ご注意!


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 戦の気配で世が満ちていた。
 止められない流れ、予定調和とも言えるそれは残念ながら主が予想した通りに動きつつあった。
 皮肉なものだと、左近はひとつ溜息を吐く。
 三成から授けられた最後の策は、それを使うことなく豊臣の世が栄え、左近がその世を見守ることを願った三成の遺言だ。
 道を違えた友をそれでも信じていた三成は、その最後の策を自分に託した。他の誰でもなく己にと言うことがただ嬉しく、そして供に逝けぬことが悲しく、あの日関ヶ原で左近は落ちよ、と言われた三成の言葉にただ静かに頷いた。それが主の望みであると、そう思って。

 左近は部屋の格子窓から外を眺めた。ここは京で使っている屋敷の一つだ。関ヶ原後、縁者の手配で用意させたこの屋敷に入ってもう随分と経つ。その間左近は世が流転してゆく様をただ見ていた。
 自分は本来ならば死んでいるはずの人間なのだ。あの日あの場所で三成と共に。もしくは三成を逃がすその為に。
そんな自分は表舞台に立つことももうないと、そう思っていた。三成の遺言を果たすその時以外には。
 左近が眺める窓の外からは、しっとりと雨に濡れた庭が見える。先程ぱらついたに驟雨は水の匂いを室内に運び、湿った空気が肌を滑る。ふと見上げた空には、うっすらと虹が見えた。不吉だと言われる虹だが、左近は意外にこれが嫌いではない。目に映る様は美しいし、刻と共に消えてゆく様も風情のあるものだと思っている。
 ふと雨の匂いに混じり、香の薫りがふわりと左近の鼻孔を掠める。懐かしい薫り、そして気配が左近の肌を刺す。
 三成の死後、何度か左近はこの気配と薫りを感じた事があった。その度驚き振り返ってみたがそこには誰も居らず、振り返った途端にその儚い気配は消えた。何度かそのような事があって、それから左近は振り返ることをやめた。背後に感じる気配は紛れもなく三成のもので、しかしそれは手に取れば消えてしまう淡雪のようなものだ。それが己が作り出した幻影だったとしても、その度不在を実感するのは辛かった。
 虹を眺めながら左近はいつもの様に振り返らない。香の薫りはその昔三成が好んで使っていたもので、彼の衣類からは焚きしめられたこの薫りがいつもしていたものだ。
 淡い色合いの虹は、すぐに消えてしまいそうに見えた。そうしてこの気配も。
 畳に座り込んだ状態で行儀悪く膝を崩し、左近は格子窓の外を眺める。消えそうな儚い虹を眺める。そうして背後の懐かしい気配を探った。振り返らない限り、それはそこにある。
 背後の気配は刻を経る程、一層濃く存在感を増し、その息遣いが感じられるほどになっていた。
 何かを語ろうと息を吸い、しかし言い出せず吐息と共に言葉を飲み込むその気配。肝心な所で口べただった主が、よくしていたその所作が懐かしく、左近の頬に薄く笑みが浮かぶ。虹を眺めていた目を閉じると現実感は一層増し、本当に三成が背後居るのではないかと錯覚しそうになる。馬鹿なことであると分かっていても。
 普段ならそろそろ空気に溶け消えるその気配は今日に限って濃さをますばかりで、その不思議に左近は首を傾げた。しかし考えて見れば、それはそれだけ己の心が弱っている証拠だろうと、自嘲がその貌に浮かぶ。
 過去を追想するのはとても幸せなことではあるが、それだけでは駄目になることを左近は知っている。そして己の役目も分かっているつもりだった。であるから、この心地よい幻想に浸りきることは出来ない。役目があるのだ。たった一つ、その為だけに生きてきた役割が。
 頃合いだと、いつものように先に気配が溶けきえる前に左近は振り返る。
 振り返った先にはなにもなく、ただ冷えた空間があるだけなことは分かりきっている。何度も味わった落胆にはもう慣れている筈であっても、やはり僅かばかりの痛みを伴うものだった。
 そうして、左近は振り返った。


果たして、そこには三成の姿があった。



 しばし呆然として、左近は動きを止める。
 振り返った左近にむしろ三成の方が驚愕した表情でぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「俺が見えるのか、左近」
 生前と何ら変わらない姿で、声で、響きで三成が左近を呼ぶ。そして己をしっかりと見据える左近の視線に確信を持ったのか、あぁと、一つ息を吐いた。そして目を伏せる。左近から目を反らし、言葉を紡いだ。
「お前には謝らなければならない、すまな・・・」
 三成の言葉は最後まで発せられることは無かった。
 座したまま振り返った左近が手を延ばして、数歩離れた場所に立つ三成の手首を掴み、引いた。掌にはしっかりと肌の感触があり、低い体温がある。あぁと言葉にならない感傷が左近の胸に満ちる。左近は強引に手を引き、体制の崩れた三成の上体を引き寄せて口付けた。三成の続けようとした言葉も、溜息も、左近の口咥内に消える。驚いた表情の三成がおかしく、喉の奥で笑いながら左近はより一層深い口づけを誘った。
 どこか観念したような表情で目を閉じた三成の頬に、その長い睫が濃く影を落とす。
長いような短いような時が過ぎ、どちらからともなく口づけを解くと、赤い顔をしたままの三成が、口を尖らせて抗議の言葉を漏らした。
「お前は、俺に謝罪のひとつも許さないつもりか」
 目元を朱に染めたままの三成が照れ隠しなのか、乱暴な口調でそう告げると、座ったままの左近の頭を自分の胸に抱え込む。
「久しぶりの逢瀬に謝罪なんて野暮ってもんでしょう」
 笑いながら告げると、不満なのか頭を抱える腕が強くなり、左近は小さく声を上げて笑った。
「それに、殿の謝罪なんて聞きたくないですよ」
 そんなものは無意味であると。そう言外に含ませて、左近は静かに告げる。
 左近の言葉に三成はしばし口を閉ざしたあと、声を絞り出すようにして問いかけた。
「俺の望みはお前を苦しめたか」
 お前に、一人生きよと与えたこの命は。長く続く苦しみを与えただけだったか。
 苦痛に満ちた三成の問いに、左近は笑む。
「殿の願いを叶えることは俺の役目なんです
よ」
 だから、殿の望みが俺を苦しめるなんてことありゃしません。
 三成の耳に、優しい響きで左近の言葉が届く。もう何も言えなくなって、ただ三成はほろほろと涙をこぼした。頭をぎゅうと抱え込まれた左近の頬に温かいそれが落ちる。
 苦笑いを含んだ溜息をこぼし、左近の手が三成の背中に延びた。宥めるようにぽんぽんとその背を撫でる。
 左近。
 三成の唇がそう呟いて、左近の頭を抱え込んでいた手を解いた。そしてそのまま今度は自分から口付ける。
 左近、左近。
 何度もそう呼びながら、ゆっくりと額に、頬の傷跡に、瞼に、その唇を落とす。
 くすぐったさに目を眇めながら、左近は静かにそれを受けた。
 何度も口付けながら三成の手のひらが左近の髪を梳く。さらりと掌の上を流れるその漆黒は三成が最後に触れた時よりも随分と長い。
「随分と伸びた」
「あぁ、適当にほうっていましたんでね」
 気に入ったのか、飽きずに何度も髪を梳くその手に左近は目を細め笑う。そうして己も手を延ばし、三成の柔らかな髪にそっと触れた。記憶に残るものと同じ手触りで、香りで、柔らかなそれが左近の皮膚を擽る。
 左近は記憶を呼び戻すように、記憶に刻みつけるように、目を閉じ、ただ静かに掌を滑らせた。
 ざわ、と開いたままの格子から風が吹き込む音だけが耳を打つ。
 左近。
 三成が名を呼んで、そっと躰を離した。そこにあった存在感や感触は、たちまち薄れていく。ひとつ、息を吐いてそうして左近は閉じていた眼を開く。
 やはりそこにはもう三成の姿はなく、吹き抜けた風はその気配も、香りも、連れ去ってしまっていた。
 夢であっても、幻であっても、先ほどのあれは左近にとっては三成には違いなかった。 己の記憶が作り上げた幻想だったとしても、ただもう一度逢えた、その事が幸せだったのだ。
 左近は畳から立ち上がると、懐から懐刀を取り出し、己の髪に当てる。つい、先ほどの三成が己の髪を撫ぜたその感触を思い出して、薄く笑い、そしてそのまま己の髪に刃を入れて、肩口あたりで切り離した。
 ばさばさと音を立てて畳に落ちていくぬばたまは不意に吹き抜けた風に浚われて、宙を舞い、空に消える。
 それを追って格子の外に目をやれば、そこにはもう虹の姿は無かった。


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