忙しい。
ただ単純に言うならば、そう言うことだ。これを詳細な言にすると、朝目覚め、領内の視察を行い、続いて家中の編成その他を決め、豪士からの訴えを聞き、昼餉を取り、検地の報告を聞き、水郷地の測量結果に目を通し、兵の調練に顔を出し、中央からの書簡に返事をしたため、普請の為の木材やら石やらの手配地を決め、仕官希望の人物との目通りをすませ、夕餉をとり、各方面を任せてある家人からの書簡に目を通しながら必要とあらばその書簡への返信をしたためる、なので忙しい。
ざっと数えあげただけで、うんざりするような内容であるが、彼、加藤清正はそれに文句の一つも言うことなく、ただ黙々と案件を熟すことに日々尽力していた。
元来自らが動き回る方が性に合っている質である。人に任せてしまえば負担も減ると分かってはいるのであるが、つい自ら動いて首を突っ込んでしまうのだ。そして質の悪い事清正はそれを苦に思わず、増える政務を片づけようと益々勤勉に励み、結果励んだ分だけまた首を突っ込んで自ら仕事を増やしていくのだ。
そうして清正はまた政務に追われていた。
場所は大阪である。拝領した肥後から秀吉への春賀の挨拶に上がって来ていたのだ。
肥後からは船と馬を使い約四日の道程であるが、その間もやはり清正は書簡に目を通し、矢立てを取り返書をしたためては早馬で肥後へそれを届けさせたりと、普段となんら代わりはない忙しさにあった。
もちろんそれは大阪の屋敷に着いてからも変わりなく、到着早々肥後から持参した文箱を広げては気になっていた書状に目を通し始め、同行した供廻りの家人は思わず溜息を吐いたりした。
機動性重視の為、最低限の供廻りで大阪に上がった清正であったが、その為大阪の屋敷に到着してからは何かと人手が足らず、家人はばたばたと忙しい。
せわしない様子の家中に気を遣い、清正は内庭に面した濡れ縁に腰を下ろし、自ら持参した文箱をぱかりと開けた。そうしてその中のいくつかの書状に目を通す。いつの間にやら清正が座した周りには無造作に書状が散乱し、黙々と書状をめくる清正は背後の慌ただしさも意識に遠く、すっかり目の前の政務に集中していた。
にゃー。
そんな清正の集中を解いたのは、一匹の猫の声だ。
書状から目を上げると、濡れ縁の端からじっとこちらを見上げるつぶらな瞳が目に入る。
こちらを伺っていたその虎柄の猫は、じっと清正を見詰めしばらくは小首を傾げていたが、危険がないと分かるともう一度にゃーと鳴いてゆっくり清正の方に近付いてきた。
散らばった書簡類を器用に避けて、清正の傍らにまで近づいた虎猫は、うな、と声を上げ投げ出されていた膝に頭を擦りつける。
「お前、人懐っこいな」
苦笑いしながら清正が手を伸ばし喉下を掻いてやると、その虎猫は気持ち良さげに目を細めて、なーん、と鳴く。
元来人慣れした猫だったのだろう。しばらく構ってやればすっかり気を許したのか、図々しくも自ら清正の胡座を組んだ膝に乗り上げて、そこに身体を落ち着けた。
気が付けば日差しは暖かく温んで、膝の中の猫もだらりと身体を延ばし、日光のぬくみを存分に享受している。
滑らかなその毛皮を撫でながら片手で書簡をめくる清正の後ろを、通りかかった家人が覗き込む。余所へやりましょうか?と家人は声を掛けたが、清正は、かまわない、と薄く笑って答え、膝の中の猫を撫でた。
日差しを浴びた毛皮は、ふわふわと心地よい手触りで掌に馴染み、自然と清正の表情も柔らかくなる。大阪屋敷の管理を任せてある使用人の言うには、最近姿をみるようになった虎猫らしく、白壁を越えては度々屋敷内に進入し、この縁側で昼寝しているとの事だった。屋敷の主の膝の上で当の猫はすっかり寛いでいる。
清正は猫を膝に乗せたまま、政務を再開させた。手元の書簡をめくり、必要ならば指示を書き付けていく。気が付けば、膝の中の猫はいつの間にやら重みを増し、すやすやと気持ちよさそうに寝入っていた。
日差しは一層暖かく、膝の中で丸まる猫は眠気を誘う温みを伝えてくる。清正は書簡を置き、一つ伸びをした。考えてみれば屋敷に到着してから一息いれることなく、ぶっ続けで書簡に目を通していたことになる。背後の柱に凭れ、一息いれようと書簡を置いた清正は、気付けば心地よい眠りに誘われ、意識を手放していた。
なにやら煩い音で、清正は意識を浮上させた。
ゆるゆると目を開くと、日差しの位置からどうやら一刻ほど経っているようだ。微睡みを引きずって、まだぼんやりしたままの清正は、ふと目をおろした自分の膝の中をみて思わず後ろに仰け反った。
膝に乗っていた黒い頭がその拍子に濡れ縁の板張りに落ち、ごち、といい音が響く。
「フガッ!・・・いてぇ・・・・」
空気を震わせていた鼾が(目が覚めたのは多分この所為だ)頭を打ち付けた衝撃で止まり、打ちつけたその部位を擦りながら、正則がのっそりと身体を起こし、まだ眠そうな目を瞬かせた。何時の間にやら清正の膝の上から正則の腹の上に移動していた(もしくはさせられていた)虎猫が不満そうな顔でなーんと一声鳴き、濡れ縁の板床に飛び降りる。
「・・・・何やってんだよ、馬鹿」
驚きですっかり目が覚めた清正が身に染み付いた脱力感で息を吐く。寝起きでまだ状況が飲み込めていなかった正則は、清正の言葉でようやく状況に合点がいったのか、にかっと、相好を崩した。
「おかえり、清正ぁ。久しぶりだよな」
久しぶりなのは確かだった。しかし到着したばかりの大阪屋敷に、知らせてもいない正則が訪ねてくるのは考えてみれば不思議な事だ。そもそも、もっと言うならどうして勝手に人の膝を使用して寝ていたのかと言うのはそれよりも不思議な事だが。
清正はとりあえず、正則から簡潔な答えが返ってきそうな案件から訪ねることにした。
「随分訪ねてくるのが早いな。まだ到着したばかりなのに」
「んあ?あぁ、そりゃ、頭でっかちがよぅ、今日清正が到着するって、教えてくれてよ」
寝乱れた髪型が気になるのか、正則は手で髪を撫でつけながらそう清正に答える。
確かに大阪到着の知らせは誰よりも先に秀吉の元に届くだろう。それは秀吉の側近くに仕える三成にも届く、と言うことだ。
意外に親切な三成の行動を不思議に思いつつ、清正はそうか、とだけ答える。
しかし考えてみればどうせ夜には秀吉のところへ挨拶に行き、そのまま酒宴の流れだろう。そして酒宴にはきっと三成も正則も呼ばれている筈なのだ。
「・・・夜の酒宴には来るんだろう?何もわざわざ来なくても良かったんじゃないのか」
「でもよぅ、やっぱ早く清正の顔見たいじゃねーか」
んで、訪ねて来てみたらここだって、案内してくれて。見てみたら清正寝てるし。俺も眠くなっちまってよ。
機嫌良く喋る正則の後ろ、先ほど床板の上に飛び降りた虎猫は書簡の散らばる濡れ縁で口直しとばかりに、もう一度身体を丸めて寝に入っていた。もちろん虎猫が身体を落ち着けた下には、清正が目通し途中の書簡が敷かれている。それを目にした清正はこら、と声を上げて猫をどかそうと手を伸ばした。
そしてふと、思い出す。自分の周りはすべからく書簡に溢れていたことを。
「・・・・おい、馬鹿、お前もしかして、下に文を敷いたままじゃないだろうな」
髪型を整えるのに必死になっていた正則の動きがその清正の一言でぴたりと止まる。そしてもうあからさまに「まずった!」と顔に書いてある表情で清正を見て、ひきつった笑みを浮かべた。
「この馬鹿!!!」
清正の大声に虎猫と正則の両方が飛び上がって、ぴゅっと逃げる。
「すまねーきよまさぁ」
「なーーん」
一人と一匹の声がハモり、たちまち勝手口の方へと消えていく。後にはくしゃくしゃになった少なくない量の文と、逃げる拍子にひっくり返された文箱だけが残されていた。
くしゃくしゃになった文を一通り確認して(幸いなことに破れてはいなかった)清正は溜息を吐く。
よく考えてみれば、自分はまだおかえり、の言葉に返す、ただいま、も言ってはいない。
「あの馬鹿・・・」
まったく慌ただしいにも程がある。だが、それがなんとも正則らしい。
ふう、と苦笑いをこぼしながら清正は散らばった書簡やら文やらを片づける。どうせまた夜には顔を合わせることになるのだ。その時にでも文句と一緒に伝えてやればいいさ。そう考えると自然、清正の顔には笑みが浮かんだ。
帰ってきた。
忙しさにかまけて、すっかり遠のいていたその感覚がじわじわと戻ってくる。そのことが清正には嬉しかった。
なんて文句を言ってやろう。
夜が楽しみだと、そう思いながら清正は一層笑みを深くした。
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