どうしてこんな奴の隣なんだ。
 納得の出来ぬ思いで、虎之介は与えられた夜具をばさりと顔近くまで引き上げた。虎之介は今日初めて長浜へやってきた。知らない場所、初めて合う人々、その全てが新鮮で物珍しい。しかしその中でどうにも気に食わぬものがある。
 虎之介は己の横、並べて敷かれたそれをちらりと見た。広い板の間にはいくつかの夜具が並べられており、長浜で仕える小姓達はそれぞれ決められた場の夜具で就寝していた。新参である虎之介は部屋の隅、濡縁へと続く戸口の真横だ。そしてその夜具の隣には虎之介よりもほんの少し先に長浜へ上がってきた、市松が寝入っている。
 出会って早々に取っ組み合いの喧嘩をした市松が虎之介はどうにも気に食わない。気に食わないが、ここで寝ろと決められたからには隣に市松が居ようとも仕方がない。年嵩の小姓組頭の少年の合図で部屋の灯りは消され、暗闇がゆっくり降りてくる。苛つきを抱えながらも隣の市松の寝息に誘われるように、いつしか虎之介も眠りに落ちていった。



 ふと真夜中、虎之介は目を覚ました。
 目を開け薄闇の中で一瞬自分がどこに居るのかが分からず戸惑う。しかしすぐにここが長浜の城であることに気づき、ほうと、息を吐いた。普段ならこんな時間に目が覚めたりするようなことはなく、どうにも落ち着かなくなった虎之介はゴロリと寝返りをうつ。
 厠にでも立った誰かが締め忘れたのか、虎之介の傍らの戸は細く開いたままで、そこから月の光が差し込みうっすらと室内を照らしていた。ごろりと転がった虎之介の視線の先には、夜具にくるまり寝息を立てる市松の姿が見える。差し込む月明かりの所為でその頬が薄ら白い。ふと虎之介は何やら市松が呟いているのを耳にする。目を覚ましている風でもないのだから、きっとそれは寝言なのだろう。ふとした好奇心で虎之介は耳を澄ました。
(・・・・かぁちゃん)
 聞こえたその言葉に驚いて、虎之介は市松の寝顔を見た。よく見れば月明かりに白いその頬が濡れていた。昼間虎之介に向かって生意気だと言い、取っ組み合いをした市松が泣いている。そのことに虎之介は驚きを隠せない。大口を叩いて朗らかに笑っていた。とても泣きべそをかくような奴に思えなかった。しかし現に目の前の市松は泣いている。一人静かに、声も無く。
 驚きが過ぎた後、そうして市松が呟いたその言葉に虎之介もようやく己がもう故郷へと戻ることのないその事を思い出した。ばたばたと慌ただしい一日で、それを思い出す暇もなかったのだ。
 しかし一旦思い出してしまえば、虎之介もたちまち涙が溢れそうになる。誰が見ている訳でもなかったが、目を閉じぐっと腹に力を込めて虎之介はその衝動を堪えた。寂しい。もう会えない。会いたい。帰りたい。殺した衝動の分だけ、感情がぐるぐる腹の中で渦巻いている。
 たまらなくなって、虎之介は目を開く。ぐるぐる、渦巻く感情がうっすらと瞳を湿らせて、虎之介はすん、と鼻をすすった。
 目をやると市松はまだほろほろと夢の中で泣いている。思わずそれにつられそうになって、虎之介はぎゅと夜具の裾を握った。泣くなよ。お前が泣くと、俺も泣きたくなるんだよ。虎之介は夜具から手を伸ばし、そうっと指先で市松の涙を拭う。それは不思議に暖かく、指先を湿らせる。
 虎之介が指先を引こうとすると、身じろいだ市松の腕が虎之介の袖を巻き込み、引いた。え、と思う間に寝ぼけた市松にそのまま袖を握り込まれて、虎之介は途方に暮れる。大分暖かくなってきたとはいえ、上掛けもなく一夜を過ごすにはまだまだ長浜の地は寒すぎる。仕方がないと、虎之介は市松の布団に潜り込んだ。寝床はほんわりと暖かく、眠気を誘う。握りこまれた袖をそのままに、身を寄せ虎之介はもう一度、市松の顔を見上げた。いつ間にかもう白い頬に涙の後はなく、握り込んだ袖口を手繰り寄せてどこか満足そうな笑みを浮かべている。
 馬鹿らしくなって虎之介も少し笑い、そうして眠気に身を任せて意識を手放した。










 幾分気の早い鳥の羽ばたきで市松は目を覚ました。まだ外は薄明るく夜明け直前といった様相だ。誰ぞかの締め忘れた細く開いた戸口から、ぼんやりと白く滲む藍の空が見え、まだ寝れると束の間の温い幸せを噛みしめながら市松は目を閉じた。傍らがやたら暖かくそれがまた眠気を誘う。
 ふとそのぬくみに疑問を感じて市松はぱちりと目を開いた。ごそごそ上掛けをめくり、自分の傍らを覗き込む。
 やたら暖かいと思っていたそこには、小さく身体を丸めて寝入っている姿があった。虎之介と言う、その出会って初っぱなから取っ組み合いの喧嘩をした相手がどうして自分の布団の中に居るのか。驚いて市松はまじまじとそこに眠る虎之介を眺めてしまう。
 昨日生意気な口を叩いて自分に飛びかかってきたその姿は、こうして眠っているとまるで別人のように頼りない。腕の隙間から見える顔は自分とそう変わらない年頃のはずであるのに、やたら幼く寂しそうに見えて少しだけ市松は昨日の喧嘩のことを後悔した。
 ぼんやりとそんなことを考えいる間に、明け掛けていた空はすっかり白みきり太陽の輝きが地平から、細く開いた戸口から、部屋を照らし出す。うずくまる虎之介の髪がそれに照らされて鈍色からきらきら、しろがねの輝きに変わった。

 綺麗だなぁ。

 光を弾くその様に他意なくそう思い、市松はその手を伸ばしてきらきら輝くしろがねに触れる。指先で踊るそれは案外柔らかく、軽く摘めばさらりと流れ落ちる。
 珍しい白銀の髪をからかって取っ組み合いの大喧嘩になったのはつい昨日のことだ。そのことも忘れて市松はただぼんやりとその輝きを見つめた。明るさを増す太陽につられるように、しろがねも輝きを増してゆく。

 こいつが起きたら、昨日のことを謝ってやってもいいかな。

 なんとなくそう思い、市松はもう一度指先をしろがねに絡める。指先で光が踊る様を、そうして眠る虎之介の顔を見た。
 隙間から差し込む日はすっかり登りきり、もう数刻もすれば皆が起床しだす頃合いだ。指先に絡まるそれを見ながら再び温い眠気に襲われた市松はそのまま目を閉じ、あと少しの間だけのまどろみに笑みを浮かべた。




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