血と泥


 まだ昼間である筈なのに辺りは暗く、湿った空気と足元のぬかるんだ泥が不快を誘う。晴れたと思われていた霧はまた周囲に立ちこめ、視界は良好とは言えなかった。
 重い身体を動かし、そうして義弘は自嘲の笑みを浮かべる。これは大した負け戦だ。負けに負けた博打と言う処だ。
 関ヶ原、そこから決死の撤退。義弘を逃がす為に豊久は戦場に残り、その行方はようと知れない。しかし戻らぬと言うことは、そういうことだろうと義弘は思っている。役目を果たさず戻ることを良しとしないのが島津の戦法だ。役目を果たせず死ぬことは許されぬ、役目を果たして死ぬならば由とする。義弘がこうしてまだ生きている以上、豊久の役目は全うされている。その死は無駄ではない。それが唯一の救いだった。
 義弘の横で供として駆けてきたものが地へと崩れ落ちる。手傷が酷くもうこれ以上動くことができないのだ。他のものがその男に火縄を持たし、道端の草むらへと連れていった。動けぬならば一人でも多くをここで道連れに。言葉もなく、当然のように男はそれを受け入れる。
 ぐちゃりと義弘の足元で泥が鳴る。前へ前へと進みながら、この光景を何度見たことか。これが負け戦だ。しみじみと義弘はそう思う。
 そうしてただただ重い足を動かし、木々の中を進んで行くうちに辺りは濃い霧に包まれ、まったく視界が利かなくなった。
 おかしい。
 そう思った義弘が足を止めた頃には、己の伸ばした手の先すらも見えぬほどの霧が辺りを覆っている。誰ぞ続くものは。声を上げる。しかし返事はなく、妙にしんとした静寂が木霊する。
 義弘は耳を澄まし他のものの気配を探った。しかしどうしたことか霧の中それはすっかり消え失せている。怪異であろうかとそう思ったが、不思議と恐怖はない。負けた博打より怖いものなぞありはしないと思えば、恐れるものはないのだ。
「・・・・、・・・ぁ」
 唐突に灰色の霧の中、僅かばかり聞こえたそれに義弘は耳を澄ました。確かに人の声のようなものが聞こえる。霧の中立ち尽くしているのにも飽いてきたと、義弘はその声の方を目指すことにした。木々の幹を伝い利かぬ視界の中ゆっくりと進む。方向感覚は役に立たず、聴覚だけを頼りにしてその方向を目指した。
 そしてどれほど進んだのか、木々の間を抜けた処にぽっかりと霧の晴れた空間が現れる。地形の所為なのかその一帯は灰色の霧に覆われておらず、とりあえず一息をと義弘は手近な幹の下に腰を下ろした。
 そういえば霧の中聞こえていた人の声らしきものはすっかり止んでいる。あれは何であったのかとそう不思議に思ったその時、今度ははっきりと義弘の耳に届く声。
「あああああ、うわぁああああん」
 泣き声。しかも子供のものだ。幼子が咽び泣いている。声は幼いというのに、その泣き方は感情を押し殺してなく大人のそれで、その違和感がまた哀れを誘う。
 興味を引かれた義弘は落ち着けていた腰を上げ、その声へ向かった。少し先にある大きな岩の影、声はどうもそこから聞こえるようだ。気配を殺しその岩影を覗き込む。怪異かと身構えいた義弘の目に飛び込んできたのは、ごくありきたりな子供が一人、地に伏して泣いている姿だった。
 物陰から伺う義弘には気付かずに、子供はただ泣いている。時折しゃくりあげ、その度にえづく。子供は胃から地面へと吐いた吐瀉物を両手に掻き集めて、そうしてまた泣く。泣きながら汚泥にまみれたそれをまた口に押し込む。そして吐く。また泣く。
 繰り返すそれは、哀れみを通り越して恐ろしさすら感じられた。狂っているのかとそう義弘が思いだしたその時に、むせび泣いていたその子供は顔を上げた。涙と吐瀉物で汚れた顔をそれでも張りつめさせて、きょろきょろと辺りを伺っている。
「誰!」
 そう声を上げたのを聞き、義弘はほうと顎髭を撫でた。この子供は気配を殺していた義弘に気付いたのだ。しかし気配を殺している相手に呼びかける所は、やはり童であるといった所か。
 子供の見せた意外な鋭さに敬意を表して、義弘は岩陰から姿を見せた。のそりと姿を表したその姿を見て、子供はぽかんと口を開けている。
「・・・・おまえ、だれ・・・おになの?」
 思えばいくさ場から休みも取らずに駆け続けていた義弘の全身は、返り血やらで汚れ煤けており、その巨体も相まって子供の目には鬼に見えるらしい。
 義弘はちょっとした悪戯心で、それを否定せず子供からわずか離れた地面に腰を下ろした。義弘の一挙一動が気になり、子供は目が離せないまま固まっている。
 地面に腰を下ろした義弘は己の腰を探り、水の入った竹筒を子供に向かって投げてやる。
「飲め」
 ようやく動きを思い出したように子供は、汚れた顔を単衣の袖でごしごしと拭う。僅かばかり汚れがとれたその顔は愛らしい。顔の造作も整っており、着飾れば稚児姓にと望むものも少なくないだろう。
「それはただの水よ」
 それとも鬼の出す水は怖いか。
 大きな眦をぎゅっと上げ、警戒心露わな様相の子供は挑まれるようなその言葉に意地になったのか、転がる竹筒を拾い上げその中身を一口啜る。泣き吐き疲れていた喉に水の甘さが染みるらしく、一息に中身は飲み干される。
 ふうと大きく息を吐き、子供が落ち着いた頃を見計らって義弘は声を掛けた。
「お前は何をしていた」
「・・・」
「泣きながら何を吐いていた」
「あれはおれのためのいのちだから、おれがせきにんをもってたべなければならないと、そう、ちちうえが」
「いのち?」
「おれのさいしょのけらいだったいぬ」
「犬の子か」
「ずっといっしょだった」
 子供は胸のうちを誰かに聞いてもらえるのが嬉しいのか、ぽつりぽつりと語る。
 子犬を一匹飼ったこと。そしてその世話した子犬を殺して食えと父に言われたこと。一番最初の家来は己の為に死ぬ。これから先もお前の為に多くのものが死ぬだろう。そしてその責任をお前は負わなければならない。だから咎をこれから多く負わなければならないお前は、この友を泣きながらでも吐きながらでも食べなければならないと。
 子供が泣きながら吐き戻していたのはその為であったかと、そう義弘は得心する。そしてその行為を強いた子供の父に驚嘆する。きっとこの子供は将来家を継ぐ子供なのだろう。英才教育と言うにはあまりにも過酷なそれは、上に立つものに必要不可欠な心の強さを育てるだろう。しかしそれはあまりにも惨い。
 落ち着いたのか子供は竹筒を手にしたまま、傍らの木の幹に身体を預けくたりと目を閉じた。
「おれはなんとしてもいきねばならないと、ちちうえはいった。でもおれをすきだといったものがしんでしまうのはつらい。でもつらいといってはいけないと」
「そうか」
「おまえは、おになのか。ならばしなないのか」 
「そうだ、死なぬ。死ねぬ」
「おにならばおれのことをすきになってしぬことはないんだな」
「そうだな」
「ならいい」
 何を納得したのか、子供はそう言う。そういってもたれ掛かっていた身体を起こすと、手に持っていた竹筒を義弘の方へと投げ返した。
「ありがとう」
 きちんとした物言いに、見れば泥汚れていても子供の身につけている衣類は高価なものだ。こんな場所で這い回っていても端々から育ちの良さが伺える。
 子供はそうしてまた、地に吐き戻した己の友の肉を手に集め出した。
「食うのか」
「うん」
「もうやめておけ」
 義弘の言葉に子供がくるりと振り返り、じっと見つめてくる。大きな眦がじわりと滲んで揺れる。瞳に移った義弘の姿も滲んで揺れる。
「父には鬼が喰らったとでも言えばよい。埋めてやれ」
 うん。頷いた子供の目からぽろりと滴が落ちる。ぽたぽた幾筋も頬を伝うそれをごしごし袖で拭う。義弘はただ離れたところからそれを見ていた。手を伸ばし子供を撫でてやることは簡単だ。しかしそうしたいとは思わなかった。幼くとも責任を知っているこの相手にそうすることは対等ではないのだ。
 子供は持っていた身の丈に合わぬ西洋剣の柄で土を掘る。泥汚れた剣はまだ子供が振るうには随分大きい。しかいこの剣に背丈が釣り合うようになる頃には、この辛さを昇華することが出来るようになるのだろう。
 がつり。
 地面を掘っていた剣の柄が岩に当たったのか、押しても引いても動かぬそれに子供は唸っている。立ち上がり近づいた義弘は後ろからその柄を掴み、引き抜いてやる。岩が当たった部分には一文字に傷が入っていたが、造りが頑丈なのか中の刃に問題はなさそうだ。
 引き抜いた剣を軽々と片手で渡せば、子供は羨望の目で義弘を見た。
「ありがとう」
「おまえもすぐに片手で振るえるようになる」
「なってみせる」
「そうだな」
 泥汚れた頬で鬼を見上げ、子供は初めて笑った。子供を見下ろし、義弘はその髪に跳ねた泥汚れを指先で取ってやる。くすぐったそうに目を細め何が嬉しいのか子供は笑う。機嫌の良い猫のようだとそう思った。
 義弘はふと気が付く。辺りは薄暗さを増し、水の匂いが漂っている。雨と言うよりは霧の匂い。己が迷いこんだ怪しげな霧を思いだし、義弘は眉を顰めた。しかし次の瞬間その耳は霧の奥より己を呼ぶ配下のものたちの声を拾い上げる。
 義弘様!どちらに!!
 幾人か、聞き覚えのある声が響く。霧の中こちらを探しているのだろう。ようやっときた迎えに義弘はやれやれと肩をすくめた。眼下の子供はそんな義弘の様子を不思議そうに見上げている。
「迎えのようだ。独りで戻れるか」
「もどれる。おににはなかまがいるのか」
「そうだ。ぬしも鬼の仲間になりたくば来ればいい」
「・・・ならぬ」
「ではこれまでよ」
 即答した子供はそれでも名残惜しげに、霧の方へと向かう義弘の背を眺めていた。
「おに!おまえはぜったいにしなぬ。そうだな」
「ああ、そうだ」
「ではまたあえる」
 そう張り上げた子供の声に振り返ることなくひらりと手を振り、義弘は霧の中へと入っていく。灰色の湿った空気が頬を撫で、そうして後ろに居たはずの子供の気配は急速に遠ざかった。代わり、ほんの数間先には見知ったものたちの姿がぼんやりと見える。
 戻ったか。そう思い義弘は息を吐く。分かってはいたが、後ろを振り返ってみてもやはりそこには先ほどあったぽっかりと晴れた空間はなく、ただただ灰色の世界が広がっている。
 不思議なこともあるものだ。あやかしの怪異かはたまた狐に化かされたか。あの子供は何だったのか。
 そう思ってはみたが合流した配下のものとどうこの場を切り抜けるか、そちらの方が重要で、いつしかその不思議は義弘の頭から追いやられた。
 それを思い出したのは、もう少したってから。脱出行が一段落し、西国へと戻る船の中でのことだ。





 船倉には傷ついたものたちがごろごろと床に転がっている。ろくな手当もできず、そのまま命を落とすものも少なくない。船はそう大きなものでもなく、追っ手の船団と行き合えば間違いなく沈められ、一網打尽とされるだろう。しかしそれでも陸路をゆくよりはましだった。
 そして義弘が乗船しているこの船には、同乗者が居た。時を同じくして西軍に与し、その大敗と共に逃れてきた立花の一党だ。
 偶然なのか運命なのか、立花とは因縁浅からぬ間柄ではあったが、落ち延びる道行きで協力体制を取ることとなり、こうして同乗している。
 義弘は船倉にごろりと横になり、目の前の立花当主を見上げる。泥と血に煤けているのは己と同じ、しかしそれでも凛とした居住まいは一枚の絵のようだ。
 ちょうど船倉の真ん中辺りに義弘と宗茂が腰を落ち着け、それを離れ囲むようにしてお互いの部下達が控えている。
 小さな船の中に仇敵とも言える相手が同乗しているこの状況は、何かがきっかけで同士討ちの混乱が起こらないとも限らない。配下の緊張を和らげる為にも、当主同士の友好は目に見える形で示しておかなければならない。気に食わなくてもその辺りの理解はしているであろう宗茂は、側でこちらを興味深げに眺める義弘に対して何の文句も言わなかった。
「こんな場所で武器とは、ぶっそうだな坊ちゃん」
 寝転び見上げる義弘は宗茂が傍らに携帯している西洋剣を見、それを揶揄するように声を上げた。しかしその声色はからかうようなそれで、本気のものではない。
「振るう相手は目の前、と言いたいところだがそうもいくまい。安心しろ。鬼を狩る為ではなく只の手入れだ」
 減らず口には減らず口で。宗茂の応酬に義弘はくっくと笑う。
 笑っている義弘を尻目に、手入れと言っていたのは本当らしく宗茂は愛用の西洋剣をすらりと抜くと、丁寧に拭き清めてゆく。
 今まで何人の血を吸ったことか、冷え冷えとした刀身は日本刀とは違った凄みを見せる。慣れた手つきで刀身を磨く宗茂の姿を、義弘は寝ころんだまま見ていた。
 ふと、感じる既視感。
 宗茂の手元を見つめていた義弘は身体を起こす。宗茂が握る西洋剣の柄にすうと真一文字の傷跡がひとつ。
「坊ちゃん、それはどうした」
 最初義弘が言っていることが何のことか分からなかった宗茂は首を傾げる。それだと剣柄を指され、宗茂はようやく得心したのかああと頷いた。
「これは随分と昔から有る傷だ。いつ付いたものかは覚えていない」
「その剣はいつから振るっている」
「もう随分と幼い頃からだ。拵えは何度か変えたが、刀身は同じものを使っている。一体それがどうしたと」
 そうか、とだけ答えて義弘は愉快を滲ませた笑いを浮かべる。関ヶ原でのあの怪異。その時のことを義弘は思いだしていた。
 見覚えのある剣、そして見覚えのある傷跡。ならば目の前の男にも見覚えがあるはずだ。
 成る程霧に迷うたばかりでなく刻も迷っておったか。
 いくさ場の見せた幻想、そう片づけるのは簡単だ。しかしそれではつまらない。
「坊ちゃん、ここに来るまでに何人死んだ」
「・・・いきなり何を」
 親しいものの死に泣いていた子供はもういない。関ヶ原からここまでの間、宗茂の為に散っていった命は幾つあったことか。しかしもうそれに泣くことはないのだろう。
 あの霧の中で出会った子供が、宗茂であるとすっかり信じてしまっている己に義弘は驚く。あれはただの近隣の子供で、剣の傷は偶然だ。そう理由づけることはいくらでもできる。しかしそれではつまらない。義弘はつまらないことよりは、非現実でも面白いことの方が好いている。それならばあの子供は宗茂であった、そう思っておく方がよほど良い。
 義弘はゆっくりと手を伸ばし、柔らかく揺れる栗色に指を絡めた。そうして指先でそこにこびりついた血泥を取る。不振を浮かべていた宗茂の表情は、目が細められ、緩く綻んでいる。
 機嫌の良い猫の様よ。
 指先に落ちる感触に、もうどこにも居ないであろうあの子供の姿を思い、義弘は笑った。


このページのトップへ ▲

▼ 前のページへ