夜更け

 日が落ちたというのに熱をはらんだ空気は一向に冷えず、むわりと夏特有のぬるさで身に絡みつく。どこか息苦しい湿度を含んだ空気をかき混ぜるように風が吹き抜けてゆくが、それも涼をを得るにはほど遠い。りりり、と鳴く虫の声すらも暑さを煽るようで清正はひとつ、息を吐いた。
 暑い。夏なのだから当然であるが、暑い。
 少しでも涼を得ようと濡縁へ続く引き戸を全開にし、月明かりと部屋から漏れる燭台の明かりで書をめくっていた清正であったが、そうまでしてもやはり暑いものは暑い。ただでさえ耐えがたい暑さであるのに、更にやっかいなことに清正の暑さを煽る要因が目の前にあった。

「あちぃ〜う゛〜あぢぃ〜」

 目の前でだらりと暑さで床に伸びた正則が唸りを上げる。耐えきれない暑さに水でも浴びてきたのか、髪は濡れてざんばらに乱れ夜着は両肩を落とし肌蹴た状態だ。裸よりは少しだけまし、ぐらいのだらけきった格好で、ごろごろ正則が床を転がる。木張りの床は寝転べば一瞬ひやりと心地良い。しかししばらくすれば己の体温で温み、耐えがたくなるものだ。
 ガキじゃあるまいし何やってんだ。
 喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、清正はまた手元の書に目を落とす。もう暑すぎて今更小言を言うのも面倒くさい。そんな心境になって口を噤む。
 大体こんな蒸し暑い夜に大の男が二人、部屋詰め込まれているだけでも暑苦しい。内庭側の引き戸は開け放たれているが、それにしても部屋にこもる空気は二人分になるのだ。
 そんなに暑いなら自分の部屋に戻ればいいのではあるが、それでも暑い暑いといいながら正則が戻る気配はない。それならばそれでいいと、清正はそのまま何も言わず手元の文字に意識を移した。しかしページをめくる間もなく、またしても邪魔が入る。順繰りに床をごろごろ転がってきた正則が清正の手前まできてぴたりと動きを止めたのだ。
「・・・清正ぁ、あちぃ・・・」
「夏は暑いもんだろ」
「でもよう・・・あちぃもんはあちぃんだよぉ・・・」
「・・・・」
「あぁあぁぁ〜〜あぢぃ〜〜〜」
 床に伏したまま正則が吠える。返す言葉も見つからず、無言で清正は視線を書へと戻した。それを見た正則がその手元の書に興味を引かれたのか伏した床からがばりと身を起こす。
 途端濡れたままだった正則の髪から拭い切れていなかった小さな滴が跳ね、清正の手元の紙面にぽつりと小さな染みを作り、墨を滲ませた。
「この馬鹿、ちゃんと拭いたのか」
「何読んでんだ?」
 清正の問いには答えず、そのまま正則が紙面をのぞき込む。浴びた水を適当に拭っただけで清正の所にやってきた正則の髪は、まだぐっしょりと濡れており、身を起こすと毛先から大粒の滴が重力に引かれ落ちようとする。
 あわてて滴の垂れる毛先を清正が手で掴み、間一髪で紙面はそれ以上の被害を避けることが出来た。
 覗き込んだ紙面が漢詩であることに気づいた正則は興味を削がれたのか、つまらなさそうに乗り出していた身を引いた。これ以上の被害を避けようと清正は手元の書を閉じ、はぁと溜息を吐く。
「ちゃんと拭けっていつも言ってるだろ」
「だって、あちいんだよ」
 答えになっていない返答を返す正則にこれ以上の問答をするのも煩わしくなって、清正は場を立ち部屋の隅の長櫃から手拭いを出した。
「拭いてやるから、頭出せ」
 もう一度溜息をともに言葉を吐く。何が嬉しいのか正則は相好を崩して、ん、とそのまま素直に俯き頭を差し出した。
 広げた手拭いでがしがしと少し乱暴に頭を拭う。毛先から滴が落ちない程度まで水分を取ると、ぐしゃぐしゃに乱れた髪を手櫛で整えてやる。少し湿った毛先は不思議な感触で、清正は意外に触り心地の良いそれに何度も指先を滑らせた。思えば自らの髪は短髪であるし、長い毛先にはとんと縁がない。しかも目の前のしっとりと濡れた毛先は濡れ羽色で、それも己とはまったく違う。不思議な心地で指先のそれを清正は眺めた。
「何やってんだ、清正ぁ?」
 なかなか手を引かない清正に正則が声を上げ身を起こす。しかしあぁと返事を返した清正の手はまだ毛先を摘んだままだ。その手先を見、何やってだ?と正則は首を傾げる。
「いや、綺麗なもんだなと思って」
「へ?」
 何言ってんだとばかりに正則の眉がしかめられる。
「清正のが、断然キレーじゃね?」
 それが当然とばかりの口調で告げられ、今度は清正が首を傾げざるを得ない。正則が事あるごとに口にする、己に向けての綺麗であるとか可愛いであるとかの賛辞がどうにも清正には不思議でならなかった。しかし今初めてそれが己と違うものに心を引かれると言うことであればと、納得ができる。何故なら、今自分が心引かれているのも同じ理由だろうからだ。
 指先でくるりと黒髪が揺れる。淡い光でも艶やかなそれをやはり綺麗だなと清正は思う。しかしこれほど正則に似合わない形容詞もないと思うと、おかしくなって清正は薄く笑った。
 ふいになにやら神妙な面もちで大人しく髪を撫ぜられていた正則がにゅっと手を伸ばして清正の髪を触る。短いそれに指先が絡み軽く引かれた。ちくちくと頭皮が痛い。
「やっぱぜってー清正のがキレーだよなぁ」
 日に透けてきらきらしてんのとかさ。
 己がことのように誇らしげに正則が言う。
「ばか」
 照れくさくなって、清正はまた指先の濡れ羽に視線を落とした。湿ったそれに指先を滑らせる。そしてその指先はふとした拍子に濡れた髪が貼り付く首筋を掠めた。感じる温度は濡れた毛先に触れていた指先には随分と熱く、なるほど先程から暑い暑いとわめいていたのも仕方ないと、そう清正に思わせる。
 あ、と清正は急に思い当たった。
 自分はこの熱を知っている。
 うだるような熱と、薄く汗の浮いた肌と、掠れた声で自分を何度も呼ぶ声と。

 襲ってきたそのリアルな記憶にたじろいで、急いで清正は手を離した。暑さの所為ではなく、顔が赤い。きっと。
 急なその動作に、何だ?と正則がこちらをのぞき込んでくる。微妙に視線から逃れるように身体をずらして清正はこれから先の夏の夜更けの過ごし方について、考えた。

 夏の夜の、この暑さがいけない。そうに違いない。

 そう己を納得させて、清正はさらに暑くなる夜更けの過ごし方を選ぶことにした。

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