頬にぬるい風が当たる。
 その感触で佐吉はうっすらと瞼を開いた。風は濡縁に続く戸を開け放たれた室内を通り抜け、春の訪れを告げてくる。床に横たわったまま、濡縁から見える中庭を佐吉は見た。先程ねねが空気を入れ換えなきゃねと、開けていったものだ。
 日差しは明るく、温かい。晴れた空は青々としている。しかし佐吉は熱を出して床に着いたままだった。佐吉はどちらかと言えば虚弱な質で、こうして季節の変わり目には寝込むことが多い。そして熱がでれば途端食も細くなり、一端寝込むとなかなか床を上げれない。
 熱を上げうっすらと朱が差した佐吉の頬にぬるい風が滑る。春の遅いこの長浜の地にもようやく訪れたそれで、桜の蕾もすっかり開いていることだろう。
 本当だったら今頃は花見の筈だったのに。
 佐吉はそう考えて、ごろりと空け放たれた戸口に背を向けた。昨日ねねには弁当を頼んでいて、そうして昼には出かけようと言い合せていた。しかし夜が明けてみれば、佐吉は熱を出していてとても出かけれる体調ではなくなっていたのだ。
 きっと今頃二人は楽しく桜を見て、ねねが持たせた弁当を食べているのだろう。そう考えると思うままにならない己の身体が悔しく、佐吉は上掛けを握りそれを頭まで被った。熱の上がった身体はだるく重い。はぁと吐いたその息すらも熱い。
 悔しい悔しい。きっと帰ってきた二人はどれだけ桜が綺麗であったか、弁当が美味しかったのか、自慢顔で話してくるに違いないのだ。
 上掛けの中でぎゅうと瞑った眦にうっすら悔し涙が浮かんだ。あの二人が知っていて、己に知らないことがあるのは悔しい。同じものを同じように、同じことを同じように。それは仲間意識とちょっとした対抗心からだ。置いていかれるのは嫌だったのだ。
 がたり。裏戸が開く音が聞こえ、佐吉は頭まで被っていた上掛けから首を出した。なにやら騒がしい声と物音がする。あの二人が騒がしいのはいつものこととしても、それにしてもばさばさと聞こえてくる枝を引きずるようなこの音は何なのか。
「よお!頭でっかち!!見ろよ」
 佐吉が声につられて、戸口の方へ向き直ると、そこにあったのは一面の薄紅色。
 風が吹く度にその薄紅はひらりひらりと宙を舞い、床で横になっていた佐吉の側へ舞い落ちて来た。
「この馬鹿がどうしてお前に見せるって」
「へへーすげー綺麗だろ」
 大人の腕程もある桜の枝を手に得意側で市松、虎之介の二人が笑う。びっくりした顔のまま暫く固まっていた佐吉もそれを見てようやく顔を綻ばせ笑った。
 春の風が吹き込む度、桜の枝から花弁が舞落ちる。それを見て三人で笑った。笑っていた。





 風が頬を撫でる感触で三成は目を覚ました。どうやら眠っていたらしい。
 夢を見ていたなと、そう思いながら三成は重い身体を起こす。
 昔ほどではないが、三成は季節の変わり目には体調を崩すことが多い。特に春先のこの季節は、必ずと言って良い頻度で床につく羽目になる。やらねばならぬことの多い身で忌々しい事だと、いつもながら思うままにならない己の身体に苛々する。
 そういえば、と三成は先程まで見ていた夢のこと追想した。随分と懐かしい幼い頃の夢。確かあの時もこうして今の時期に寝込んでいたのだ。
 あの時手折って運んできた桜は、当時秀吉が仕えていた信長手ずから植えた桜だとかで、バレた後に二人はこってり絞られていた覚えがある。折られた枝をみた秀吉が青くなり、その後赤くなって怒っていた様子を思い出し、三成はくすりと笑う。結局あの後二人に何の咎めもなかった処を見ると、秀吉は折れた桜の言い訳に苦心しながらも成功したのだろう。まぁあの信長がそれごときで目くじらをたてるような器とも思えないが。
それにしても随分と懐かしい、そんな時代の話だ。ふうと小さく三成は息を吐いた。まだ幾分吐く息が熱い。熱が下がりきっていないのだ。それでもこうして思考は冴えているからいけない。色々と考えてもどうしようもない事を考えてしまうから、いけない。
 三成が息を吐き軽く目を閉じた時、がらりと部屋の戸が引かれる。目を開き、そちらを見れば起きてましたかとそんな表情で、左近がこちらをのぞき込んでいた。手にはなにやら盆を持っている。
「また薬湯か」
「流石殿、ご明察ですな」
 薄い笑みを浮かべながら薬湯の入った盆を手に、左近が三成の傍らに座る。
「もうその味には辟易だ」
「それならば早く治されることですな」
 左近は小憎らしい口調でさらりと三成の苦言を流すと、三成が半身を起こすのを手伝い、その手に薬湯を握らせる。縁者の医者が調合したと言う薬湯は良く利くのは良いが、良薬口に苦しの通りとても苦い。どろりと粘るその液体は飲み下すのも一苦労だ。
 百面相をしながら何とか三成がそれを飲み干している姿をおもしろそうに見て、それから左近はすいと立ち、細く開いていた裏庭に面した戸をがらりと大きく引く。空気の入れ替えもしませんとな、天気もいいですし。そんな事を言いながらまるで小姓のようにこまめに動く。まったくもって家老のするような仕事ではない筈なのだ。何度言っても左近のこの口うるさい母親のような処は直らない。だから三成もほとほと諦めている。
 粘つく薬湯をなんとか飲み干して器を傍らに置くと、三成は再び夜具へと横になった。見上げると戸口に手を掛けた左近が、なにやら裏庭辺りをじっと見つめ不思議な顔をしている。
「・・・どうした?」
「・・・いいえなんでも」
「・・・?変な奴だ、まぁいい。ああ、そう言えば先ほど夢を見たぞ」
「ほう、どんな」
「昔の夢だ。寝込んでいた俺の処に正則と清正が桜を抱えてやってきた時の」
「そりゃぁまた・・・なんというか・・・」
 押さえられない、と言った様相で左近が吹き出した。今己の言った事になにかそんなおかしいことがあったのか、訳が分からない三成は不審な表情で左近を見る。
 くっくっ、と口元を押さえ左近はまだ笑いの発作を殺すのに必死の様子で、それが三成にはどうにも気に食わない。
「何なのだ一体」
「ええそれは、ですね」
三成の問いに答えながら、左近の視線が合け放たれた戸の向こう、そちらをちらりと見やった。横になっている三成の位置からは、外がどうなっているのかはさっぱり分からない。なにか左近に笑いの発作を起こさせるようなものがそこにあると言うのか。
「まあすごい偶然とでもいいましょうかね」
「?」
「ああ、どうぞこちらから入れますよ」
 もったいぶった左近の態度にいい加減三成が苛立って来たその時、左近が戸口の外へなにやら声を掛けた。そうしてがらりと目一杯に戸を開くと、茶目っ気たっぷりに三成へと片目を瞑る。
「さて年寄りはさっさと退散しますよ」
 後で小姓に茶でも持って来させましょう。そう告げると左近はすいと場を立って部屋を後にする。一体なんだと三成が眉を顰めたその時、がたり、なにやら裏口の木戸が引かれる音、そして続いてなにやらずるずると引き擦られる音、それらが聞こえてくる。
 音のする方を見つめていると、唐突に視界を埋める薄紅色があった。わさわさとそれが動いている。いや、動いて居いるのは満開の桜の木だ。
 状況が理解できない三成があっけにとられている間にも、わさわさ動く桜は木戸をくぐり三成の方へ近づいてくる。近づいてきた動く桜が濡縁の脇へとたたどり着いた処で、ようやく三成は得心する。馬鹿力の誰かが、馬鹿のような考えでもってここまでその木を運んできたのだ。何のために?それは多分三成の見舞いの為に。そしてこんな馬鹿げたことをしでかす相手を三成は一人しか知らない。
「よお」
 さわさわ動く桜の木が揺れて、その桜色の隙間から見知った顔が見える。
「馬鹿か・・・おまえは・・・」
「んだよ、折角見舞いにきてやったってのに」
 思わず口から出た三成の言葉に、不満そうに口を尖らせ、正則は言い返した。しかしこれを馬鹿と言わずしてなんと言うのか。小ぶりとは言え桜の木丸々一本根本から引っこ抜いて見舞いにするなど聞いたこともない。
 呆気にとられた三成を尻目に、正則はすました顔で邪魔するぜとばかりに濡縁から上がり込んでくる。もちろん、抱えた桜もそのままに。
 小さいとは言え木一本が部屋へと押し込まれれば、そう広い訳でもない室内はその存在感に圧倒される。どこから運んできたのか、桜はどうやら根ごと引っこ抜かれたようで、むりやり上がり込んだ所為で床の上にはぼろぼろと土がこぼれていた。
 これは後で左近が文句をいうなと、そんなことを頭の隅で考えながら三成はその持ち込まれた桜を改めて見上げる。
寝転んでで見上げていることも相まって、それはひどく大きく見えた。視界を薄紅が覆う様は、ここの処床についたままで退屈していた三成の目には物珍しく、好ましい。
「美しいな」
「だろ!見舞いだってんだから、一番綺麗なやつを選んだんだぜ」
 枝折っちまうのが惜しかったから、引っこ抜いて来たんだ。これなら後で植えれるだろ。得意顔で正則が言う。
「馬鹿の所行だが、まあ美しいのは認める」
 正則は横になっている三成の頭側の壁に桜を凭れさせて、自分もその横へ腰を下ろした。枝が揺れる、その度に花びらは室内を舞う。風が室内を通るその度にまたはらはらと。
 頭上に広がる薄紅の光景は、懐かしいそれだ。ほんの先頃、夢の中で見たその光景。三成はそれを懐かしく思い出す。
「正則、どうしてここへ」
「頭でっかちが春だってのに寝込んでるって聞いたからよ。覚えてるか?昔俺と清正で桜持ってきてやったことあっただろ。確かお前熱出して花見にいけなくて、それで」
「正則」
「良く清正ともあの時の事話してたんだ、そのうち清正だって見舞いに」
「あいつは来ない」
「そんなことは」
「俺はお前にどうしてここへ来たと、そう言っている」
 吐き出す息はまだ熱い。強い口調で三成はもう一度、そう言った。どうしてここへ。
 本当ならば、自分たちはもう会うべきではない筈だ。
 三成は近く起こるであろう徳川との戦準備をしている。それは豊臣の世を守る、その為のものだ。しかし同じく豊臣の世を守ろうとするはずの清正とはその意見を違え、袂を別った。豊臣を守る為、徳川とぶつかることも辞さない三成と、豊臣を守る為ならば徳川に膝を屈することも厭わない清正との間にはどうやっても埋められない意見の相違がある。そして正則も清正の側に付き、三成とは道を違えた。
 豊臣を守る為に。自分たちの家を残すために、出来ることは何でもやろうと決め、やってきた。方法は多いほうが良いのだ。道を別かつとも、方法が違っていても、たどり着く処が同じらば。誰かがそれを果たしてくれるならば。ならばそれでいいとそう三成は思っている。そして多分それは清正も同じなのだ。東西に別れた戦で己が討たれても、清正は残るだろう。清正が討たれたなら己が残るだろう。そして万が一二人ともに討たれても、正則が残るだろう。誰かがそうしてつないでいけるならばそれで良いとそう三成は思っていた。
 であるから、こうして戦を控えたこの時期に正則が己を訪ねてくるのは政治的な面からもあまり良いとは言えない。外へ知られれば正則の東での立場は微妙になるだろうし、三成にも内通の噂はたつだろう。であるから、正則の姿を見つけた左近はその来訪を喜びながらも、裏口からそっと通したのだ。
 心を決め、道を違えたのに何をしに来たのだと、だからそう三成は正則を問いつめた。今更何をしにきたのだと。
黙ってしまった正則は己が運んできた桜を見上げる。開け放たれた戸口からぬるんだ風が吹き込んで、盛りを少しすぎた辺りの花びらはその度にまるで雪のように宙を舞った。はらはら。さわさわ。いくつもいくつも、その薄紅は三成の上に降り積もる。
 正則はまだ黙ったままだった。三成は分かっている。正則はまだこの後に及んでも、清正と三成の和解を諦めていないのだ。だからこうして昔の思い出を口にする。どうして自分達が争う必要があるのかとそう思っている。だからあれほど喧嘩だ、これは喧嘩なのだと繰り返すのだ。
 分かっていない、いやむしろ分かっているからこそ、そう言っているのかもしれないとそう思う。三成は知っている。正則はいうほど馬鹿ではない。いつだって一番大切なことを見謝ることはない。でもだからこそきっと、三成や清正の意図には気づかない。自分達が争えば、どちらに転んでも正則を生かすことが出来るというその意図には気付かない。
 ざあざあと風に煽られて桜が舞う。部屋のあちこちに薄紅が舞落ち積もる。ひらひら積もる。口に出来ない想いの欠片のように積もっていく。
 三成は横になったまま、目を閉じた。沈黙が落ちる。風に揺られた枝が鳴る。静かに花弁が舞うその音を聞いた。ひらひらひらひら。ああ、いっそのこと、想いの全てがこの花弁のように風に散ってしまえばいいのに。
 目前の気配がゆっくりと動いたのが、目を閉じたままの三成に伝わってくる。影が動いて、三成側に近づいて来たのが分かった。うっすらと顔に差し込む日差しが遮られる。ひとつ、鼓動が跳ねた。
 そしてふわりと閉じたままの瞼に柔らかい感触が落ちる。びっくりした三成は、焦って瞼を開けた。口づけを落とされたのかと思ったのだ。しかし急ぎ開いた視界には三成を覗き込んでいる正則の姿が見えた。ほろほろと、音もなく泣いている。
 三成は己の顔に手を伸ばす。そしてそっと花弁を摘み挙げた。先ほど瞼におちてきたのはこれだったのだ。
三成は焦ってしまった自分に驚いて、そして笑いたくなった。なんだそうだったのか。本当に今更だ。自覚するのも遅すぎる。
 胸の内が温い。見上げる正則はまだ泣いていた。多分それは己の為の涙だ。それだけで胸の内が温かい。
「どうして、泣く」
「泣いてねぇ。ただ、あんまりお前が動かないから」
 死んでしまったら。きっと正則は動かない三成をみてそう思ってしまったのだ。これから先に起こるかもしれないその光景を思い、涙を流したのだろう。
 涙が流れる頬にひらひらと舞う花びらが一枚、落ちる。三成は腕を伸ばし、その一枚を指先に摘んだ。花弁はしっとりと温い悲しみで濡れている。
 唐突に三成はその指先をぱくりと花びらごとくわえた。驚いた表情で正則がこちらをみて目を見開いた。
「しょっぱいな」
 甘いのかと思った。
 桜色の悲しみはまるで砂糖菓子のように甘いのかと。戯れのような言葉を吐いて、もう一度三成は目を閉じる。ああ、花弁が舞っている。薄紅に乗った悲しみが積もっている。横になった己の上にそれが降りつもって、これが墓標になるのならば、悪くない。
 そんなことを想いながら、三成は息を吐いた。



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