さて、どうやらここまでのようですな。
遠い筈の鬨の声は、気付けばもうすぐそこから聞こえてくる。喚声、馬の嘶き、埃っぽい砂の臭い、汗と血の混じる臭い。いくさ場はもうすぐそこまで迫っていた。
既に徳川の軍は三成が陣を敷く笹尾山の麓まで迫っている。高台の上、見下ろす地上はすでに軍の様相を成さずに逃げまどう兵達の姿。
なるほど、これはここまでだ。
三成は左近の言葉に納得する。己は負けたのだろう。左近が三成に対して気休めを言うことはない。その左近がこう言うのだから、これはもうどうしようもない。覆らない。
左近に背を向け、三成は被っていた天衝を取った。弱っている表情などたとえ左近でも見られたくはない。ぱちり。そのまま籠手を外す。そして一つ息を吐いた。
「さて、殿。ここで提案があるのですが」
「ここまで来て何か策があると?」
「ええ、最期の、やぶれかぶれの策ですよ」
自嘲めいた笑いを滲ませて左近がそう言う。そしてそれと同時に三成の背後からばさりと何かを被せた。
「っ、何のつもりだ」
唐突な左近の行動に三成は憤慨しながらその被せられた何かを乱暴にむしり取った。そうして手にとったそれを何気なく見、驚きの表情を浮かべる。
そこにあるのはいつだったかねねが三成の為に拵えた華やかな薄紅色の打ち掛けだ。三成も一枚ぐらいはこんなのもっておかないとね。優しい彼女がそう言って仕立ててくれたそれは、結局一度も袖を通すことなく葛籠に仕舞われたままだったはずだ。
手中のそれを見て三成は顔を上げる。目前で左近が笑っている。仕方ないと言う顔だ。いつもいつも、三成に小言を言う時の表情だ。
「殿、これを着て、お逃げなさい」
左近の手が上がり、すいと地平の向こうを指した。そして三成が何か言う前に、有無を言わさぬ強さで握ったままだった打ち掛けを取り上げると、ばさりと頭から被せる。見上げれば手が掛かかると言わんばかりの表情で、さあと背を押された。
「良く、お似合いですよ」
もっと早くこうして差し上げたかったですな。どこか皮肉めいた口調でそう左近が自嘲する。それはいつだったか、三成が「このような衣に袖を通すのは天下太平が訪れ、自らが役目を終えた時だ」と言ったその事を覚えているからなのだろう。
「左近」
「さあ、もうあまり時間がありません早く」
「俺はここで責任を果たさなければ」
「あんた俺にみなまで言わせる気ですか」
それは野暮ってもんですよ。
そう言って左近はもう一度三成の背を押した。
「いきなさい」
ぐっと力が込められて、突き飛ばされる。驚き体制を崩した三成がふらつき膝を付いたその一瞬で、左近の姿は目の前から消えていた。驚き、高台からいくさ場を望めば、もう遠く敵中真っ只中へと駆けてゆく背が見える。
「左近!」
叫んだ三成の声は多分もう聞こえてはいない。左近の背はどんどん遠くなる。
「左近」
もう一度、三成は叫んだ。声は届かない。
がくりと膝を付いた三成の側へ、前もって左近に言い含められていたであろう幾人かの側近たちが近付きその肩を支える。皆何も言わず、ただ目で三成に早くと先を促した。左近の想いを無駄にするなと。
お前がそれを望むのならば。
三成は肩を支える側近達の手を払いのけ、立ち上がる。膝は震えている。胸には悲しみが満ちている。しかしそれでも、託されたのならば、それに答えなければならない。
顔を上げる。先を見据えて、三成はただ駆けだした。
もう何人斬ったのか。
血糊で滑る斬馬刀の柄を握り直し、左近はそうひとりごちる。今頃三成は無事脱出を果たしただろうか。予めある程度の手筈を整えてはあったが、それでも無事この窮地を脱するのは難しいだろう。しかしどれだけ難しくとも、どれだけ低い確率であろうとも、ここで己が刃を振るい続ける限り、その数字はゼロにはならない。
荒い息の下、揚々と名乗りを上げる。少しでも多くの目をこちらに。一瞬でも多くの時間を稼ぐために。
「石田家筆頭家老、島左近。さぁ鬼左近の相手をしてくださるのはどちらかな」
鬼の相手をするからには、ここは地獄とお覚悟を。口元を歪め、人を食った笑みでそう告げた。胸の内にはたった一つの願いだけ。
どうか、あの不器用な魂が、幸せになれますように。
さくさくと枯れ葉を踏む音だけが木々の間に響いている。足を引きずるようにして、三成はだた先を急いでいた。日は落ち、辺りは闇に包まれている。木々の隙間から届く月明かりだけが唯一の光源で、何度も躓きながらそれでも足を進める。先へ、先へ。ただそれだけを思い、限界の近付く身体を動かした。
関ヶ原から敗走する三成は、もうこうして一昼夜走り続けている。疲労で身体のあちこちは悲鳴を上げ、気を抜けば地面にへたりこんでしまいそうだ。
三成に付き従っていた側近達も、追っ手がかかる度、一人囮となり、一人足止めにとどまり、いつしか三成はたった一人で逃げ続けていた。はぁはぁと上がる息がうるさい。思い通りに動かぬ身体が忌まわしい。どうして己は思う様に野山を駆け回ることのできる体格に恵まれなかったのか。酷く恨めしい、恨みがましい気持ちになる。
疲労に重い足が地を這う木の根に取られ、三成は体勢を崩した。羽織ったままだった打ち掛けの袂が揺れ、目に入る。
三成は思う。このようなもの着れなくとも良かった。そんなことよりも、強い、野山を駆け回っても息一つ上がらぬ頑強な身体、誰にも負けぬ武勇の方が万倍も欲しかった。あの二人のように。どうして己は女の身に生まれたのか。
足を進めながらぼんやりと三成はそんなことを考える。もう何度も何度も考えては諦めたそのことを考える。
三成は、女だ。
知っているものはごく僅か、限られている。ねねや秀吉、幼少期を共に過ごした清正や正則、左近を始めとする近しい側近の何人か。その事実を知るものはごく少ない。
そもそもの始まりは三成の父だ。長浜の地へと赴任してきた秀吉との繋がりを求め、三成を秀吉の元へ小姓として仕えさせた。娘であることを伏せて。
温厚篤実と評価の高い三成の父は、その実大した策略家だった。秀吉が良く立ち寄ると聞く寺に、三成を寺小姓として侍らせ待機させていたのだから、我が父ながら大した腹であるとそう三成は思わずにはいられない。当時、織田家での出世頭であった秀吉との繋がりは是非とも欲しい。しかし世情はどう転ぶか分からぬのが常である。であるから、三成の父は保険をかけたのだ。長男である三成の兄ではなく、第二子である三成を性別まで偽って仕えさせた。三成は幼子の頃からなかなかの美形であったし、性別がばれたとしても女好きと噂の高い秀吉の目に留まり側室にでもなれればと、そうのような打算もあったのだろう。
しかしその父の打算は結果思わぬ方向へと転がってゆく。小姓として仕えだした三成の才は抜きんでていて、秀吉は美貌ではなくその際立った才を重宝したのだ。もちろん成長と共に三成の性別が明らかになった時には一波乱あったものだが、それでもその後も家族同様の扱いに違いはなかった。秀吉もねねも、三成を実の我が子のように思っていたし、三成も実の父母以上に秀吉、ねねを思っていた。共に過ごし家族であるとそう信じていたのだ。それは共に兄弟のように育った正則、清正も同じはずだった。女であっても何も変わらない、そう言ってくれた。そう扱ってくれた。その事は女の身であることを一番悔やんでいた三成を随分と慰めたのだ。
乱れる息を整えようと、三成は足をゆるりと止める。動かしていた身体を休めれば、とたん秋めいてきた空気がひやりと頬を撫でた。
はらり。
ふと、下を向いていた三成の視線の先を、白い何かがよぎる。雪にはまだ早いはずであるのにと、宙を見上げれば。
さわさわ。はらはら。
月明かりの中空に、白く花弁が舞っている。風が吹く度それは地面から舞い上がる。驚いた三成は風で流れてくるそれを思わず追った。ひらひら、ざわざわ。まるで導くかのように、月闇の中それは淡く光って見える。
そして三成は少し開けた場所にある一本の大きな木の下へとたどり着いた。空を覆い隠すように大きな枝振りで、その木はただそこにある。
三成はそっと懐から、携帯式の灯を取り出し火を灯した。淡い橙色に照らされたそれは大きな一本の桜だ。時期はずれの狂い咲きかそれとも寒桜なのか。ただただ独り、花弁を散らしている。
誰に見られることもなく、ただ雄大に枝を伸ばすその姿を、三成はしばらく魅入られたようにぼんやり見つめ続けた。そして思い出していた。桜の花びらと、甘い薄紅の悲しみとを。
嗚呼、あの馬鹿はどうしているだろうか。
いくさ場にでているとは聞いていた。怪我などしていないだろうか。どこか場違いにそんなことを考える。
惚けたようにその光景に見入っていた三成は、ふと近づく人の気配に我に返った。急ぎ灯りを吹き消し、気配を殺す。
迂闊だった。まだ追っ手がいたとは。
幾人かの声、ざわめきと殺気、そして血の匂い。
三成は相手の気配を探りながら、緊張に身を堅くする。ずっと愛用していた鉄扇は度重なる酷使でつがいが取れてしまい、もう役には立たない。身を守るものは何もない。守ってくれる者ももう居ない。三成は独りだ。
「こちらで灯りが見えた」
「本当か」
「大将首なれば、そこそこの金になるぞ」
「探せ」
「探せ」
「殺せ」
粗雑な会話が漏れ聞こえる。追っ手と言うよりは落ち武者を狩る賊の一行のようだ。どちらにせよ、体力も底をつき疲れ果てた三成が相手にするには難しい相手には違いない。なんとか気付かれずにやり過ごせれば、そう思っていた矢先、三成の潜む木陰を指さし、あれはと声を上げるものがある。
「あの影にちらりと見えるのはなんじゃ」
「ん?あれは衣か」
「白い衣じゃ」
「女か」
ちっ、と三成は舌打ちをする。羽織っていた薄紅の打ち掛けが仇になった。闇の中ではその白さは逆に際立ってしまう。こうなってしまってはと、三成は木陰から身を起こし男達に姿を晒した。一人、二人、三人。薄汚れた衣にどこから盗んだのか胴当てをつけて、いっぱしの足軽のような様相をしている。しかしその実、彼らは賊でしかない。こうして東西問わずにはぐれた武者を狩り、その首を敵方へと持っていき金に替える。そんな無法者達だ。
「女だ」
「おお、こりゃ上玉だ」
「どこぞかの姫さんか」
「これは金になるぞ」
「こんな上玉、差し出す前に俺たちが楽しんだって罰はあたらねぇ」
「そりゃそうだこれは戦なんだから、負けた側が痛い目にあうのは当然さあ」
胸の悪くなるような言葉を吐く男達に、不愉快を露わにした表情で三成は吐き捨てる。
「屑が」
敵を作ることにかけては右にでるものがいないといわしめた三成のこの言いようには、男達も頭に血を上らせた。
「生意気な女だ」
「馬鹿にしやがって」
「すぐにとっつかまえて泣き叫ばせてやりゃあいい」
じりじりと三成は包囲を縮めてくる男たちに追いつめられるように後退する。距離をとろうと下がる背中は暫く進めば桜の幹が当たり、三成は追いつめられてしまう。
「鬼ごっこは終わりじゃ」
「綺麗なべべを剥ぎとろうかそれとも切り刻もうか」
「ああもったいない。あれも売れるぞ破くなよ」
獣の息を吐きながら男たちが手を伸ばした。ぎっとそちらを睨みつけ、三成は目を逸らさない。最期まで諦めない。どんな目に遭おうとも。
ど ん。
三成は目を見開く。何が起こったのか分からない。大きな音と共に何か黒い影が飛来して、今まさに三成に手を伸ばそうとしていた男の一人を薙ぎ倒したのだ。倒れた男が持っていた松明が地面に落ちている。その灯りで照らされている黒い飛来物を三成は見た。大きな黒い武器。棘棍。見覚えがあるそれは。
「うりゃぁあああああっ」
耳をつんざくような大音響。草影から飛び出したその巨体が宙を飛び、そのまま男の一人を蹴りつける。直撃を受けた賊の男は勢いのまま吹っ飛び、そして倒れ動かなくなった。
あっという間に二人が地に沈み、残り一人が呆然としている間に正則は最初に投擲した棘棍を取り戻す。
「で、やんのかよ」
正則にしては珍しい。低く、唸るような声で凄み殺気を滲ませる。酷く怒っているのだ。こんな様子は三成もあまり目にしたことがない。
ひぃと恐怖にひきつった声を上げて、残った男は地面に倒れ伏した二人に肩を貸し、わき目もふらずに逃げだした。その背中が木々の影に消え、すっかり気配が遠ざかってから、正則は大きく息を吐いて構えていた武器を降ろした。
ぱちぱちと賊の一人が落としていった松明が地面の上で燃えている。緊張が解けたあまり、三成はずるずると桜の幹に背を預けたまま地面にへたりこんでしまっていた。松明の灯りで照らされた地面は一面薄紅が敷き詰められている。薄紅の地を見る。そして、そこに立つ正則の背中を三成は見る。
狂い咲きの桜。独り咲く花。誰も見なくとも、凛と咲く花よ。
ひらひら花びらが舞って、まるであの春の時のようだと、そう三成は考える。これは幻なのか。死の間際の己が見る夢なのかと。
「大丈夫か」
正則はこちらを振り返ってそう言った。しかしまだぼうとしたままの三成を見て、心配そうに近付き目の前でしゃがみ込む。
「おい、返事しろって」
ああそうか、これは夢ではないのか。三成は手を伸ばした。正則の髪に積もった花びらごと、くしゃりと手で握る。手指が震えてうまく花びらだけ摘めない。肩を触った。温かい。両腕を伸ばして、首筋を抱いた。耳元でため息が聞こえる。
そうっと躊躇いがちに背中に手が添えられて、冷えていた身体に僅かばかりのぬくみが染みてゆく。
「左近が死んだ」
「そうか」
「沢山死んだ。俺の所為だ」
「・・・」
「俺を家康の処へ連れてゆけ」
そこで責任をとろうと、そう三成は言った。お前が俺を連れにきたのも因果あってのことだろうと。
三成の背中に添えられていた腕がぎゅうと力を強くする。三成は目を瞑った。瞼の裏にもはらはらと、淡い花弁が散っている。
「なぁもういいだろ。これで喧嘩はおしまいなんだ」
「馬鹿か。これは喧嘩じゃない、戦だったんだ」
多くを奪った戦だったのだ。だから三成には生きろと言われた左近の言葉よりも、死んで責任を取る事のほうに心引かれてしまう。己だけ都合よく生き延びるよりも。
「下衆な輩に辱められ首を奪われることなく腹を斬れるのだから、お前には感謝する」
三成の言葉を聞いて、ぐ、と背中に回されていた腕が力を増す。痛いほどのそれに、三成は非難するように正則の腕を軽く叩いた。
「痛いぞ」
「なぁ」
「だから、痛いと」
腕の力は緩まない。
「石田三成は、ここで死んだんだ」
「・・・なにを?」
「そんでお前に懸想してた俺は、諦めきれずに、お前そっくりの女を探して自分のもんにするんだよ」
正則の口から出た言葉の意味が一瞬分からず、三成はじたじたと暴れていた動きを止めた。そしてその内容を咀嚼し考える。
「・・・え」
ばっと三成は顔を上げて正則顔を覗き込んだ。暗がりでも分かる程に顔が赤い。ぱちぱちと瞬きをして、三成はもう一度その内容を考える。そして目の前の真っ赤な顔を見る。
「なぁなんとか言えよ」
「え、あ、う」
釣られるように三成も顔を赤くして口ごもった。弁舌滑らかなことが自慢でもあったはずなのに何一つ言葉が浮かんでこない。頭が真っ白で、ただ心臓の音だけがやたらと耳をついた。嬉しいのかと、そう三成は胸の中でひとりごちる。己は嬉しいのだ。泣きそうになるほどに嬉しかったのだ。
回されたままの正則の手は返事を待つようにうろうろと三成の背中をさまよっている。触れている場所が温かい。それだけで幸せだった。
三成はもう一度、上げていた顔をその肩口に埋める。己の顔を見られたくなかった。最期なのだから、これぐらいは許されるはずだ。
「正則、覚えているか。昔、お前と清正は寝込んだ俺の処に桜を手折って持ってきてくれたな」
「んだよ。いきなり」
「あれは嬉しかった。でも本当は俺はお前たちと一緒に桜を見に行きたかったのだ。共に同じ経験をしたかった」
手折られた桜の美しさを一人知るのではなく、共に眺める桜の美しさを知りたかった。ずっとずっと。
三成は顔を上げない。上げてしまえばきっとばれてしまう。ぎゅっと回した腕で強く肩口を掴む。
「どこで変わってしまったのだろうな・・いっそ共に同じようにと、それを望まなければよかったのかもしれぬ」
普通の女のように生きていれば。そうすれば。ああ、でもそうすればきっと出会うこともなかったのだ。
「お前が好きだ。だが共には行けない」
ありがとう。そう三成は言った。ぎゅっと瞑った瞼の裏で、淡い花びらが舞っている。それは、あの春の日のものなのか、それとも在りし日の思い出の中のものなのか。
「俺は、責任をとらなければならない」
三成の言葉を聞き、正則は肩を持って強引にしがみついていた三成の身体を引き剥がした。俯き顔を伏せていた三成がゆっくり顔を上げる。長い睫が動く度滴が跳ねる。泣いていた目元が赤い。
そして正則は三成の肩を掴んだまま、姿勢を低くする。
そして。
そして正則は、音が聞こえる程に思い切り、その額に頭突きをお見舞いした。
「!!!!!!!」
思わず目の前が白くなるほどの衝撃で、三成は思わず地面に手を突き倒れ伏してしまう。
「いきなり何をする!この馬鹿が!!!!」
まだくらくらとする頭を振って、三成は怒鳴り返した。ぎっ、と睨み上げれば、平気な顔をした正則がいつの間にか立ち上がり、ふんと言った様相でこちらを見下ろしている。
よろめきながら三成も木の幹につかまり立ち上がる。
「一体なんのつもりだ、大概にしろ」
「頭でっかちはそうやって威張って怒鳴ってりゃいいんだよ!」
いつもみたいに、そうしてりゃいいんだ。正則はそう言う。どこか必死を滲ませてそう言う。
「そんな簡単に捨てちまうなよ。捨てるんだったら俺にくれよ、なあ」
嫌なんだったら、いつもみたいに、威張って、偉そうに、鼻持ちならない口調で、そう言えよ。俺のもんになるのが嫌だってんなら、それぐらいなら死んだ方がましだってんだなら、そう言えよ。
見たことのないような表情で正則は言う。その様相を三成は見つめていた。先ほどの頭突きでまだ世界が揺れている。 これはこぶになったなとそう思えば腹立たしい。しかし腹立たしいが、お陰でずいぶんとすっきりした気持ちになっている。滲んでいた目元を手の甲で少し強めに拭うと、僅かばかりの水分は風に巻かれて消えていった。
ふと見れば、今度は目の前の正則が泣きそうな塩梅だ。なにやら妙に笑いたいような気分になって、三成は天を仰ぐ。
月明かりの中一面に、薄紅が舞っている。
ああ、美しいな。すとんと何か、胸の中、答えが落ちてくる。とても簡単なことだ。ずっとどうして気づかなかったのだろうか。
月空と桜を背景に、大きな身体を持て余すように、正則が佇んでいる。泣きそうな目をしているな。つき合いが長い分、その感情の動きはよく分かる。まだ童の頃喧嘩に負けそうな時、確かこんな顔をしていた。
くくく。小さく笑いが漏れた。いったん、流れだしてしまえば、それは止まらない。なんて滑稽な。賊に襲われた処を助けられ、告白されて、抱きしめられて、頭突きをされて、そうして今目の前で勝手に泣きそうな顔をしている。どうにも締まらない。なんとも自分達らしい。だがそれが嬉しかった。
「そんな顔をするな、泣くな」
「泣いてねぇよ」
泣いてるのはお前じゃないか。
ず、と鼻をすすって、正則がそう言う。言われて頬に手をやれば、確かにぽろぽろと涙がこぼれている。どうしたことか三成は気づいていなかった。悲しくなかったから、全く気付かなかったのだ。
泣いているのに酷く愉快な気分で、三成は声を上げ笑う。そんな三成を見ながら正則は不審そうな顔をしている。
「なんだよ、一体」
「ああ気分がいい。きっと先程の頭突きでお前の馬鹿がうつったのだろう」
「んだよそれ」
泣きながら笑っている三成の声には、もう先程までの陰鬱さはない。そのことに正則は安心する。
「くれてやる」
好きしろ。
笑いながら、三成は唐突にそう言った。そうして正則が意味を理解するよりも先に、大笑いを始める。泣きながら笑っているものだから、笑いすぎて泣いているのか、泣いているのに笑っているのか、もう分からない。その塩梅がまたおかしい。
正則はそんな三成の様子をみて、一つ肩をすくめた。折角格好いよく決めたってのに。
ひらひら、桜の花びらが一枚、泣き笑いをしている三成の頬に止まる。正則はやけくそのように、三成の肩を抱いて顔を寄せ、その頬に止まった花びら舐め取った。「しょっぺぇ」そうしてしかめ面でそう一言。
三成はその腕に飛び込んで、いっそう笑い転げる。そうしてふくれた頬に、唇を寄せた。
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